知りたくなる。
 でもあとをつけるほど気にも入らなかったとみえて、あえてそれを知ろうともしなかったが、ある日のこと、男は例の帽子、例のインバネス、例の背広、例の靴《くつ》で、例の道を例のごとく千駄谷の田畝にかかってくると、ふと前からその肥った娘が、羽織りの上に白い前懸《まえか》けをだらしなくしめて、半ば解きかけた髪を右の手で押さえながら、友達《ともだち》らしい娘と何ごとかを語り合いながら歩いてきた。いつも逢う顔に違ったところで逢うと、なんだか他人でないような気がするものだが、男もそう思ったとみえて、もう少しで会釈をするような態度をして、急いだ歩調をはたと留めた。娘もちらとこっちを見て、これも、「あああの人だナ、いつも電車に乗る人だナ」と思ったらしかったが、会釈をするわけもないので、黙ってすれ違ってしまった。男はすれ違いざまに、「今日は学校に行かぬのかしらん? そうか、試験休みか春休みか」と我知らず口に出して言って、五、六間無意識にてくてくと歩いていくと、ふと黒い柔かい美しい春の土に、ちょうど金屏風《きんびょうぶ》に銀で画《か》いた松の葉のようにそっと落ちているアルミニウムの留針《ピン》
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