傷つけたのさ。その習慣が長く続くと、生理的に、ある方面がロストしてしまって、肉と霊とがしっくり合わんそうだ」
 「ばかな……」
 と笑ったものがある。
 「だッて、子供ができるじゃないか」
 と誰かが言った。
 「それは子供はできるさ……」と前の男は受けて、「僕は医者に聞いたんだが、その結果はいろいろあるそうだ。はげしいのは、生殖の途《みち》が絶たれてしまうそうだが、中には先生のようになるのもあるということだ。よく例があるって……僕にいろいろ教えてくれたよ。僕はきっとそうだと思う。僕の鑑定は誤らんさ」
 「僕は性質だと思うがね」
 「いや、病気ですよ、少し海岸にでも行っていい空気でも吸って、節慾しなければいかんと思う」
 「だって、あまりおかしい、それも十八、九とか二十二、三とかなら、そういうこともあるかもしれんが、細君があって、子供が二人まであって、そして年は三十八にもなろうというんじゃないか。君の言うことは生理学万能で、どうも断定すぎるよ」
 「いや、それは説明ができる。十八、九でなければそういうことはあるまいと言うけれど、それはいくらもある。先生、きっと今でもやっているに相違ない。若い時、ああいうふうで、むやみに恋愛神聖論者を気どって、口ではきれいなことを言っていても、本能が承知しないから、ついみずから傷つけて快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなくなる。先生のはきっとそれだ。つまり、前にも言ったが、肉と霊とがしっくり調和することができんのだよ。それにしてもおもしろいじゃないか、健全をもってみずからも任じ、人も許していたものが、今では不健全も不健全、デカダンの標本になったのは、これというのも本能をないがしろにしたからだ。君たちは僕が本能万能説を抱《いだ》いているのをいつも攻撃するけれど、実際、人間は本能がたいせつだよ。本能に従わん奴《やつ》は生存しておられんさ」と滔々《とうとう》として弁じた。

       四

 電車は代々木を出た。
 春の朝は心地《ここち》が好い。日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと透《す》き徹《とお》っている。富士の美しく霞《かす》んだ下に大きい櫟林《くぬぎばやし》が黒く並んで、千駄谷《せんだがや》の凹地《くぼち》に新築の家屋の参差《しんし》として連な
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