一種の遠いかすかなるとどろき、仔細《しさい》に聞けばなるほど砲声だ。例の厭な音が頭上を飛ぶのだ。歩兵隊がその間を縫って進撃するのだ。血汐《ちしお》が流れるのだ。こう思った渠は一種の恐怖と憧憬《どうけい》とを覚えた。戦友は戦っている。日本帝国のために血汐を流している。
 修羅《しゅら》の巷《ちまた》が想像される。炸弾《さくだん》の壮観も眼前に浮かぶ。けれど七、八里を隔てたこの満洲の野は、さびしい秋風が夕日を吹いているばかり、大軍の潮のごとく過ぎ去った村の平和はいつもに異ならぬ。
 「今度の戦争は大きいだろう」
 「そうさ」
 「一日では勝敗がつくまい」
 「むろんだ」
 今の下士は夥伴《なかま》の兵士と砲声を耳にしつつしきりに語り合っている。糧餉を満載した車五輛、支那苦力の爺連《おやじれん》も圏《わ》をなして何ごとをかしゃべり立てている。驢馬の長い耳に日がさして、おりおりけたたましい啼《な》き声が耳を劈《つんざ》く。楊樹の彼方《かなた》に白い壁の支那民家が五、六軒続いて、庭の中に槐《えんじゅ》の樹《き》が高く見える。井戸がある。納屋《なや》がある。足の小さい年老いた女がおぼつかなく歩い
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