ど夢中である。自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪《なみ》の叫び、人間の悲鳴!
 「苦しい! 苦しい!」
 その声がしんとした室にすさまじく漂い渡る。この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥《きが》していた。日本兵が始めて入った時、壁には黒く煤《すす》けたキリストの像がかけてあった。昨年の冬は、満州の野に降りしきる風雪をこのガラス窓から眺《なが》めて、その士官はウォツカを飲んだ。毛皮の防寒服を着て、戸外に兵士が立っていた。日本兵のなすに足らざるを言って、虹《にじ》のごとき気焔《きえん》を吐いた。その室に、今、垂死の兵士の叫喚《うめき》が響き渡る。
 「苦しい、苦しい、苦しい!」
 寂としている。蟋蟀は同じやさしいさびしい調子で鳴いている。満洲の広漠《こうばく》たる野には、遅い月が昇ったと見えて、あたりが明るくなって、ガラス窓の外は既にその光を受けていた。
 叫喚、悲鳴、絶望、渠《かれ》は室の中をのたうちまわった。軍服のボタンは外《はず》れ、胸の辺はかきむしられ、軍帽は頷紐《あごひも》をかけたまま押し潰《つぶ》され、顔から頬にかけては、嘔吐《おうと》した汚物が一面に附着した。
 突然
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