行ったおりの若々しさが憶《おも》い出される。神楽坂《かぐらざか》の夜の賑《にぎわ》いが眼に見える。美しい草花、雑誌店、新刊の書、角を曲がると賑やかな寄席《よせ》、待合、三味線《しゃみせん》の音、仇《あだ》めいた女の声、あのころは楽しかった。恋した女が仲町にいて、よく遊びに行った。丸顔のかわいい娘で、今でも恋しい。この身は田舎《いなか》の豪家の若旦那《わかだんな》で、金には不自由を感じなかったから、ずいぶんおもしろいことをした。それにあのころの友人は皆世に出ている。この間も蓋平《がいへい》で第六師団の大尉になっていばっている奴に邂逅《でっくわ》した。
 軍隊生活の束縛ほど残酷なものはないと突然思った。と、今日は不思議にも平生の様に反抗とか犠牲とかいう念は起こらずに、恐怖の念が盛んに燃えた。出発の時、この身は国に捧げ君に捧げて遺憾《いかん》がないと誓った。再びは帰ってくる気はないと、村の学校で雄々しい演説をした。当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言ってももちろん死ぬ気はなかった。心の底にははなばなしい凱旋《がいせん》を夢みていた。であるのに、今忽然起こったのは死に対する不安である。
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