会《でつくは》したから、お辞儀をしたが、黙つて莞爾《にこ/\》と笑はしやつた。えらく痩《や》せなすつたな。」
それでゐて、葬式が行くと、どんな貧乏なものでも、乃至《ないし》は富豪でも、同じやうな古い僧衣《ころも》を着て、袈裟《けさ》をかけて、そして長い長い経を誦《ず》した。そしてその声も始めに比べて、次第にその声量を増し、威厳を増し、熱意を増して来るのを誰も認めた。淋しい大破した本堂の中に漲《みなぎ》り渡る寂滅《じやくめつ》の気分は、女や子供、乃至《ないし》は真面目に考へる人達の心を動かさずには置かなかつた。他の寺の僧達の誦《ず》した読経《どきやう》ではとても味ふことの出来ない微妙《みめう》な深遠な感じに人々は撲《う》たれた。
さま/″\の評判の中《うち》に、秋は去り、冬は来た。木の葉は疎々《そゝ》として落ち、打渡した稲は黄《きいろ》く熟した。ある朝は霜《しも》は白く本堂の瓦の上に置いた。村の人達は段々|朝毎《あさごと》の寺の読経の声に眠《ねむり》をさまされるやうになつた。
十一
「浄乞食《じやうこつじき》――浄乞食。」
口の中にかう言つて、かれは僧衣《ころも》の上に袈裟《けさ》をかけて、何年ともなく押入の中に空しく転《ころが》つてゐた鉄鉢《てつばつ》を手にして、そして出かけた。
かれは藁草履《わらざうり》をつツかけて穿《は》いた。かれは寺を出て、一番先に、近所にある貧しい長屋の人達の門《かと》に立つた。
破れた笠《かさ》の中からは、かれの熱した眼が光つた。
「オ、オ、オー、オー。」
と言つて鈴を鳴した。
ある老婆が、最初に五厘銭を一つその鉢の中に入れた。
かれに取つては、それは最初のまことの喜捨であつた。かれは老婆の冥福《めいふく》を祈つて長い間読経した。
「乞食坊主《こじきばうず》、乞食坊主――」
あるところでは、大勢の子供達がかれの周囲《まはり》を取巻いた。
かれはをり/\路の真中に立留つて読経した。
家から家へとかれは行つた。ある家では、
「まア、お寺の和尚ぢやないか。托鉢《たくはつ》に出なすつたがな。世話人たちは何うしたんぢやな、米も持つて行つて置かないと見えるぢやな、もつたいない。」などと言つて、袋に入れた米を渡した。
かれの眼には、到《いた》るところでいろ/\な光景が映つた。収穫の忙しい庭、唐箕《たうみ》のぐる/\廻つてゐる家、あるところでは、若い女が白い新しい手拭で頭を包んで、せつせと稲を扱《こ》いてゐた。誰も彼も世のしわざにいそしんでゐた。しかし、この穏かな平和な田舎《ゐなか》も、それは外形だけで、争闘、瞋恚《しんい》、嫉妬《しつと》、執着《しふぢやく》は至る処にあるのであつた。道ならぬ恋の罪悪、乾くことなき我慾の罪悪、他を陥れなければ止まない猜疑心《きいぎしん》、泥土《でいど》に蹂躙《じうりん》せられた慈悲、深く染着《せんちやく》しつつもその染着をわるいと思はない心、さういふ光景は一々かれの眼に映つて見えた。
ある大きな家では、かれは長い間立つて読経《どきやう》した。
「出ないと言ふのに、うるさい坊主だな!」
かういふ主婦の尖《とが》つた声がした。
「やれよ、やれよ、一文やれよ、うるせい坊主だ。」
かういふ主人らしい男の声が奥からきこえた。
やがて五厘銭は投入れられた。
しかしかれは読経の声をやめなかつた。また容易にそこを立去ることをしなかつた。静かにかれは読経をつゞけた。
かれ自身にもそれはわからなかつた。何ういふ理由で、その家の前で、さうして長く立留つて読経しなければならないかと言ふことが解らなかつた。不思議の奇蹟《きせき》がかれの心の周囲をめぐつた。
幼時に習つた経文に書いてあつた奇蹟、そんなことがあるわけがないと思つたやうな奇蹟、それが今不可思議の事実としてかれの前にあらはれて来た。古来存在した幾万億の仏達、菩薩《ぼさつ》達の行《おこなひ》が、言葉がかれの心に蘇《よみがへ》つて来た。
かれの姿はあちこちに見えた。時には寒い碧《あを》い色をした小さな沼の畔《ほとり》の路に見えた。時には川添《かはぞひ》の松原のさびしい中に見えた。かと思ふと、ある小さな町の夕日を受けた家並《やなみ》の角に見えた。
寒い西風の吹き荒るゝ路を静かに歩いて通つてゐたりした。
かれは日毎に出懸《でか》けては、家々の軒に立つた。
辛い悲しい生活をかれは其処此処で見かけた。しかしさうした生活以上に我々人間の大切なことがあるのを誰も知らない。人々はそれを知らないがために苦しんでゐる。慨《なげ》いてゐる。その無智な、無辜《むこ》の人達のために、殊にかれは手を仏に合せなければならないことを思つた。
ある寒い夕暮に、かれは自分の居間で黙つて坐つてゐた。かれの衣《ころも》は薄く且《か》つ汚れてゐた。破れたところをかれは自分で処々|繕《つくろ》つて着た。
「御免なさい。」
かういふ声がした。
しかしそれはやさしい声だ。若々しい女の声だ。この頃では、世話人ももう滅多《めつた》にはやつて来なかつた。かれ等は自分の勝手に托鉢《たくはつ》に出たかれの行為を不快に思つた。「ああいふものに構つてゐては仕方がない。」かうある者は思ひ、ある者は、「余りに勝手だ。何うかしたに違ひない。」と思つた。寺には人はつひぞやつて来なかつた。
「御免なさい。和尚《をしやう》さん、お留守ですか。」
かれは顔を其処に出した。見たこともない二十三四の若い女がそこに来て立つてゐた。
「何か? 用?」
女は顔を赧《あから》めたが、抱へて来た包の中から、一枚の綿入を出した。新しくはないが、綺魔に洗ひ、縫ひ畳んだ綿入を……。
「失礼ですけれども、これを和尚さんにさし上げたいと思ひまして……。私が心がけて、この間から洗つたり縫つたりしたものです。何うか、私の些《いさゝ》かばかりの志《こゝろざし》だけを納めて下さいませ。」
かう言つた女はまた顔を赧《あから》めた。かれは深く心を動かされずには居られなかつた。かれは凝《ぢつ》と女を見詰めた。
「志ばかりで御座いますから、何うか……」
「これは難有《ありがた》いお志だ。」
かう言つたきりで、かれの眼から涙がにじみ出さうとした。
しかしかれは何も言はなかつた。黙つて礼拝《らいはい》合掌した。
十二
「ヤア、また、あの乞食坊主が何かしてらあ……」
かう言つて人達は其方《そつち》の方へと走つて行つた。それは町の角である。長い町を通つてこれから寒い風の吹く野に出ようとする角である。通りかゝつた荷車や人足や女子供などが一杯に其処に立留つた。
深い鬚《ひげ》の中に明るく眼をかゞやかし、破れた僧衣《ころも》に古い袈裟《けさ》をかけ、手に数珠《じゆず》を持つたかれの前には、二十八九になる一目見て此処等に大勢ゐる茶屋女だとわかる女が、眼に涙を一杯に溜めて、そして矢張手を合せて立つてゐた。
「坊主、女でもだましたかな!」
かうした悪声を放つた人達も、そこに来て、その状態を見ては、思はず不思議な思ひに撲《う》たれた。
女は合掌して涙を流してゐる。そしてその前にゐる一人の乞食坊主――汚い坊主が神か仏でもあるやうに、それに向つて随喜渇仰《ずゐきかつかう》してゐる。
かれは唯黙つて読経《どきやう》した。
かれは五六日前に、その女の抱へられてゐる小さな料理屋の門《かと》に立つた。それは夕暮で、これから忙しくならうとする頃であつた。奥には、もう客が二組も三組も来てゐた。そこの上《かみ》さんは、面倒だと思つたかのやうに、一銭をその鉄鉢《てつばつ》の中に入れてやつた。しかしかれは容易にその読経《どきやう》と祈念とをやめなかつた。かれの心がこの門に引かれたと同じやうに、かれの読経の声に心も魂も帰依《きえ》せずにはゐられないやうな女が其処に一人ゐたのであつた。それはかの女であつた。男に対する苦痛と罪悪とに日夜|虐《さいな》まれ通しで生きて来たかの女であつた。かの女はその重荷に堪へかねた。
かの女は店から外に出て来て、かれの前に跪《ひざまづ》いて合掌した。
その話を聞いた時には、そこに集つた人達は皆な不思議な思ひに打たれた。
トボ/\と野に向つて行くかれのさびしい姿を人々は見送つた。
「本当かな!」
「本当ですともな……。あの和尚《をしやう》さんは、普通の和尚さんではない。あゝして托鉢《たくはつ》して歩いてゐるけれども、苦しい辛い罪悪がある家の前に行くと、きつと立留つて長くお経を読んでゐる。きつとそれが中《あた》る。そのお経の声がぢつとその人の胸にこたへる。現に、私なんかも、その一人で御座います。私は心中をしました。男が死んで自分が生き残つたのです。その時は別に何とも思ひませんでした。好いことをしたとも思ひませんが、生命《いのち》があつて好かつたと思ひました。しかしそれが何《ど》んなにその後私を苦しめましたか。私は行く先々で、きまつて男から心中を誘はれました、男がそのために生命《いのち》を失つたものは一人ではありません。そしてその度毎に、私はいつも生残つて来るのでした……。あゝ、もうしかし、生きた仏に逢《あ》つて、この苦悩を救はれました」。かう言つて女は手を合せて数珠《じゆず》を繰つた。
「あの和尚さんは仰《おつ》しやつた。一度心中しそこなつたものは永久に心中のしそこなひをするものだ。姉を姦したものは、又必ずその妹を姦するものだとかう仰しやいました。あの和尚さんは私の苦しみを救つて下すつた。仏に向つて手を合せるやうにして下すつた。生みの親の恩よりももつと深い。」かう女は群集に向つて言つた。
不思議な思ひに満たされた群集の上に、薄暮の色は蒼《あを》く暗く押寄せて来た。
十三
不思議な乞食坊主の話は、時の間にそれからそれへと伝へられて行つた。ある者は否定した。ある者は肯定した。
否定したものは、「今の世に、そんなことがあつて堪《たま》るものか。それは丁度《ちやうど》その女がさうした苦痛を持つてゐたからだ。自分の影だ。自分の影を見て驚いたに過ぎない。」
と言つて笑つた。
「そんなことを言つて、良民を迷はすものは、捨てて置かれない。第一、人の門に立つて乞食をするさへ邪魔なのに、その家の内部まで見透《みす》かしたやうなことを言ひふらすのはけしからん……。警察で取りしまつて貰はなければならん。」
かう敦圉《いきま》いて言ふものなどもあつた。慈海の生立《おひたち》を知つてゐるものは、「あの坊主、二十年振りで国に帰つて来たが、その間には何をやつて来たかわかりやしない。風説によると、何処にも行きどころがなくなつて、それであの寺に入り込んだつていふ事だ。油断がなりやしない。現に、ちよつと見てもわかる。薄気味のわるい眼をしてゐるぢやないか。」などと言つた。しかし中にはかれの不断の読経《どきやう》やら、寺に来てからの行状やらから押して、普通の僧侶――其処等にざら[#「ざら」に傍点]にある嚊《かゝあ》を持ち、被布《ひふ》を着、稼穡《かしよく》のことにのみ没頭してゐる僧侶とは違つてゐるのに眼を留めるものなどもあつた。ある大きな青縞商《めくらじましやう》の主人はその一人で、その家の門に慈海の立つた時には、いくらか尊敬の念を以つて、その姿と行動を凝視した。成ほど世間の評判のやうに、その読経の声に深く人の魂を引附けずに置かないやうに深遠|微妙《みめう》の調子を持つてゐるのをかれは見た。
「兎《と》に角《かく》、普通の僧侶とは違つてゐる。」
かうかれは人々に話した。不思議な乞食坊主の話は、次第に村から町、町から野へとひろがつて行つた。
ある日、また一場の話が伝《つたは》つた。それは町の外れに住んでゐる鋤《すき》や鎌《かま》や鍬《くは》などをつくる鍛冶屋の店での出来事であつた。鍛冶屋の亭主は巌乗《がんじよう》な五十男で、これまでつひぞ寺にお詣《まゐ》りしたことなどはない男であつたが、その坊主が来て門に立つて読経《どきやう》してゐると、忽《たちま》ち深い感動に心を動かされたら
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