考へると、幸福なもの必ずしも幸福でなく、不幸なもの必ずしも不幸でない。何の故《ゆゑ》に? 一つと一つと合つたものも矢張もとは二つのもので、永久に一つであることは出来ないが故に――。一つと二つと合つたものも、遂《つひ》には一に帰さなければならないが故に――。
 自己の持つたものを失ふの辛さ、自己の持ち得たと思つたものを失ふの辛さ、これほど辛いものはない。それがよく女や男を川へと伴《つ》れて行く……。
 かれは其処まで考へて、大きな溜息を吐《つ》いた。そこに大きな欠陥があるやうな気がした。染まるべからざるものに染つて行く可能性を賦与《ふよ》した自然は? 絶対に自己のものにする事の出来ないものを自己のものとなし得る可能性を賦与した自然は? 満されたる心の飽満から生ずる倦怠《けんたい》、餓《う》やされたる心の寂寥《せきれう》から起つて来る憧憬《しようけい》、これは実は一つであるのではないか。同じことではないか。
 しかし満されざる心と餓やされたる心とは同じでない。飽満《はうまん》と寂蓼とは同じでない。倦怠と憧憬とは同じでない。それでゐてこれが同じであると言はなければならなくなるのは何の故であらう。死にまで深く染着《せんちやく》した心は美しくはないか、勇ましくはないか、雄々しくはないか、また優しく悲しくはないか。これが人間の最後の「詩」であり且《か》つ「宗教」ではないか。
 文明は虚偽を生んだ。デカダンを生んだ。勝者の権利を生んだ。「自己」を生んだ。現にかれなどはそれを真向《まつかう》に振翳《ふりかざ》してこれまでの人生を渡つて来た。智慧《ちゑ》を戦はして勝たんことを欲した。自己の欲するまゝにあらゆるものを得んことを欲した。そのために、かれには富んだもの栄えたもの主権を把持《はぢ》したものがその対象となつた。山も丘も平野も一緒に平らにならなければならないと思つた。
 しかし平等は物質にあるのではない。人生と人性との表面にあるのではない。勝利者にあるのではない。智慧《ちゑ》と手段とを戦はして勝つたところにあるのではない。かう考へると、「恐ろしい群」の人達のことが、再びかれの胸に迫つて来た。折角《せつかく》さぐり出した秘密の糸がそこでぽツつり絶えてゐるのを感じた。
「あゝ、もうよさう、考へるのは止さう。もつと静かに休まなければならない体だ。何事をも捨てたやうに、この簇《むらが》つて来る千万の考慮をも捨てよう……」かう思つて、かれは庫裡《くり》の一間から出て来た。
 いつもゐるところに婆さんがゐない。道具と言つては唯これ一つしかないと言つても好い長火鉢、その上には鉄瓶《てつびん》がかゝつて、しかも沸《に》え立つてプウ/\白い湯気を立ててゐた。
 かれはそれに水を足した。
 そしてそこにあつた下駄をつツかけて戸外《おもて》に出た。
 広々として美しく日にかゞやいた野がその前に展《ひら》けた。夏のさかりの大地から湧《わ》き上る暑気は、草にも木にも一面に漲《みなぎ》りわたつて、キラ/\とかれの眼と体とに反射して来た。
 畠には笠《かさ》をかぶつて百姓が頻《しき》りに草を取つてゐた。
 ふと昨夜《ゆうべ》世話人がやつて来ていろ/\に言つた寺の経営の話がかれの頭にのぼつて来た。「兎《と》に角《かく》、昔から由緒《ゆゐしよ》のある寺だから、この儘《まゝ》かうして置くのは残念だ。何うか、貴方《あなた》が来たのを機会に、昔のやうには行かなくとも、本堂も修繕し、庫裡《くり》ももう少し住み好いやうにし、寺としても余り人に馬鹿にされない寺にしたい。……中興の祖には、貴方より他《ほか》になつて下さるものはないんだから。」かう言つて、重立つた世話人は、寺の財産や、無住にして置いた間に出来た金や、乃至《ないし》はその中から先住《せんぢゆう》の借金を埋めた話などをした。かれはそれに対して深く心を留めてはゐなかつた。「段々さういふことにして……まア、さう急がなくつても好う御座んすから。」かうかれは静かに言つた。
 かれの足は行くともなく墓地の方へと行つた。それもそこに行かうと言ふ意志がかれを其処に伴《つ》れて行つたのではなかつた。かれは唯ぶら/\と歩いて其方《そつち》へと行つた。
 墓地は昔と比べては頗《すこぶ》る明るくなつてゐるのをかれは見た。それも先住がその後《うしろ》の杉森を伐《き》つた為めであつた。女に対する愛欲の結果がかうした形に影響するといふことも、彼には不思議なやうな気がした。つゞいて先住と自分との生活がちよつと比べて考へられ、二人が嘗《かつ》ては此処で同じ飯を食ひ、同じことを考へ、或は同じ寺の娘を恋したかも知れなかつたことがつゞいて頭に上つて来た。偶然――偶然。「本当に、偶然の二字でこれを解釈して了つて好いのであらうか。」
 かれの今までの経験は、何も彼《か》もその「偶然」で解釈された。考へて不思議の境《さかひ》に至ると、「これも偶然の事実だ。」と考へて、そして片を附けた。時には内心に不満足を感じ、余りに疑惑の伴はない薄い心を感じたこともないではなかつたけれど、それ以外に、その「偶然」以外に何う解釈して好いかわからないので、有耶無耶《うやむや》の中にその不思議な心理を抑塞《よくそく》した。
 それに、その「偶然」と考へる処に、あらゆるものを「無意味」にして了《しま》ふところに、一種微妙な科学の権威があつた。また肯定された科学の不思議があつた。敢《あへ》て深く入つて行かないところに、勇ましい男らしさと誤りのない精確さとがあつた。知らないものは知らないものとしてこれから研究しよう、報告しよう、知らないものを知り得ると考へるやうな危険な直覚は成るたけ避けよう。かう考へたところに、「偶然」の価値があるのであつた。しかしかれがこれに不満足を感じ出したのはもう余程前のことである。女と子供の溺死体を見た以来のことである。……突然かれの心は内から外に向つた。墓があらはれて来たのであつた。
 要垣《かなめがき》の緑葉《みどりば》に囲《かこま》れた墓があるかと思ふと、深い苔蘚《こけ》に封じられた墓が現はれて来た。新しい墓もあれば、古い墓もある。或は五輪塔型、或は多宝塔型、其他いろ/\な型がある。或は倒れてゐるのもあれば、長い間の風雨を平気で凌《しの》いで来たらしいのもある。中にはその墓石の表面に仏像が刻まれてあるものなどもあつた。かれは立留つて一つ一つその墓を撫《な》でて行きたいやうな気がした。
 かれは茫然《ぼうぜん》として立尽した。
 このかれの立つてゐる向うに、深い深い草藪があつて、その中に黒い暗い何年にも人の入つて来たことのない古池が湛《たゝ》へられてあつた。そこには雲の影も映らなければ、日影も滅多《めつた》にはさして来ない。しかも人知れず埋《うづも》れたその池の中にも、生物は絶えずその生と滅とを続けてゐるのであつた。夜は蛙《かはづ》の鳴く声が喧《やかま》しくそこからきこえた。

     八

 新しい住職の世話をするために来た婆さんは、始めの一人は十日ほども経《た》たない中に、世話人の許《もと》に行つた。
「国から急病人があると言つて来たもんですから。」
 かう言つて、二三日の暇《ひま》を貰つて行つたが、日限が来ても、その婆《ばゝあ》は竟《つひ》に帰つて来なかつた。二人目も五六日で暇《いとま》を乞ひに世話人の許《もと》にやつて来た。
 三人目、四人目……。
 世話人は訊《き》いた。
「何うして、さうだらう。何か和尚《をしやう》がいやなことでもするのかな?」
「いゝえ。」
 別にさうしたことがあるのでもないらしかつた。ある婆さんは言つた。「でもな、ひとりぢや淋しいだ。和尚さん、何も言はないで、一日自分の室に引籠《ひつこ》んでゐて、話もしねえから……」
「出て来ねえか。」
「出て来ねえどころか、飯に呼んでも、それがすむと、すぐ居間に入つて行つて了ふだでな。」
「本でも読んでるのか?」
「いや、本なんか一冊もねえ。」
「ぢや、物でも書くのか?」
「書きもしねえ。」
「それぢや唯ごろ/\してゐるのか?」
「唯、一日中ちやんと、机に向つて坐つてゐるだ。」
 かう言つて、その婆さんは、比較的|詳《くは》しくかれの平生《へいぜい》の状態を世話人達に話した。葬式が来ると、古びた僧衣《ころも》を引かけて、黙つて本堂に行つて、いつものやうにお経を読んで、それがすむと、そのまゝ元のやうにその居間へ行つて坐つた。
「朝のおつとめは?」
「朝のおつとめなんかしねえ。」
「ぢや、葬式の時きり、お経はよまねえんだな?」
「さうだな、まア、よまねえつて言ふ方が好いだんべいな。それでも、此間、雨のふるさびしい日に、何《ど》うした拍子か、大方《おほかた》和尚《をしやう》さんも淋しかつたんだんべい。本堂でお経を上げてゐる音がするから、不思議に思つてそツと行つて見ると、本尊様の前で、一生懸命にお経を読んでゐるだ。それもいつもの葬式の時などに読むやうな小さな声ぢやねえだ。大きな声で、後《うしろ》に私が行つて見てゐるなどは夢にも知らねえで、一生懸命に読んで御座らつしやる。……不思議な気がしたにも何にも……」
「淋しいんだな、矢張《やつぱり》……」
「淋しかんべいよ。」
 世話人達は、これでは駄目だと思つた。折角《せつかく》、寺の復活を考へて伴《つ》れて来たが、これでは駄目だ……。しかし、一人あゝして放《はふ》つて置くといふことが間違つてゐるのである。何処の寺でも、今では女房子を持たないものはない。和尚にも一人相応なのがあつたら、持たせるに限る……。かう世話人達は寄り合つて相談した。
 しかし、あの寺に、あの廃寺に、本堂に雨が洩り、庇《ひさし》が落ちてゐるやうな寺に、誰が女房になりに来るものがあるであらうか。「とても来手《きて》はねえな。すたり者のねえツていふ女《あま》つ子《こ》だ。誰が物好きにあんな寺に行つてさびしい思ひをするものがあるもんか。」かうそこから出て来た婆さんは笑ひながら言つた。
 世話人は猶《なほ》いろ/\なことを婆さんから聞いた。誰もたづねてくるものはないか。郵便は来ないか。又誰か訪《たづ》ねて和尚は行きはしないか。――その答はすべて No ! であつた。
 ある日、世話人は二人して出かけた。一人はかれを都から此処に伴《つ》れて来たものであつた。かれ等は庫裡《くり》から入つて行つた。婆さんに出て行かれたかれは、ひとりぽつねんとして庫裡《くり》にゐた。かれはひとりで土鍋《どなべ》に飯を炊《た》いて食つてゐた。
「何うも世話をするものがなくつてお困りでせう?」
 かう一人が言ふと、
「いや――」
「何うも矢張、お寺はさびしいと見えて、落附いてゐるものがなくつて困りましたな。」
「いや――」
「さぞ御不自由でせうな。」
「いや、別に……」
 鬚《ひげ》の深く生えたのを剃《そ》らうともせずに、青白い肌膚《はだ》の色をその中から見せて、さびしげにかれは笑つた。
 世話人達が齎《もたら》して来た話を聞いた時には、かれは何等の答をも与へなかつた。
 かれは唯笑つた。それも快活に笑つたのではなく、にやにやと笑つたのでもなく、反抗的に冷かに笑つたのでもなく――唯、笑つた。
 暫くしてかれは言つた。
「まア、暫く、かうやつて、落附かせて置いて下さい。……イヤ、世話するものなぞはなくつても好《よ》う御座んすから。」
「でも、相応なのがあつたら、一人お貰ひになる方が好う御座いませう。貴方だつてまだお若いんだから。」
「まア、その話は、もう少し先に寄つてからにして戴きませう。」
 それより他に何も言はないので、世話人達は止むを得ずに引返した。

 世話をする婆さんももうやつて来なかつた。かれは一人でその廃寺の中に埋れたやうにして住んだ。
 小さな土鍋、一つの茶碗に一つの味噌椀、皿はところどころ欠けたのが二三枚あつた。腹が減ると、かれは立つて行つて、七輪に火を起した。
 時には以前の生活がかれの心に蘇《よみがへ》つて来た。新しい思想のチャンピオンであり、「恐ろしい群」の第一人者であり、デカダンの徒の一人
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