話をした。
 あのおとなしい静かな兄弟子が、世話人の話すやうな残忍無恥な、又は貪欲《どんよく》な、又は無残な行為をして、あの老僧の経営した寺をかうした廃寺にして了《しま》はうとはかれは夢にも思はなかつた。世話人の言ふ所に由《よ》ると、この先住の女戒《によかい》を破つた形は殊《こと》に烈《はげ》しかつた。最初の中は此方《こつち》から身を躱《かく》して、こつそりさういふ土地に出かけて行つたが、後には平気で、幅《はゞ》で、女を庫裡《くり》へ伴《つ》れて来ては泊らせてやつた。かれは放蕩《はうたう》のための金がなくなると、仏具を売り、植木を売り、経文を売り、後には僧衣《ころも》や袈裟《けさ》までをも売つた。たうとうそのために問題が大きくなつて、寺にゐられなくなつた。伐採した杉森の跡は、今でもちやんと指点された。
「今は何うしてゐるだらう?」
 かう新しい住職はをり/\兄弟子のことを考へた。「何でも、東京に行つてゐるさうです。最後の女と浅草あたりで道具屋か何かしてゐるさうです。」かう世話人は言つた。しかし、それももう八九年も前のことであつた。今は死んだか生きてるかわからなかつた。
 兎《と》に角《かく》、庫裡《くり》――二三年前まで留守居の男のゐた庫裡を掃除して、そこに住居《すまひ》することの出来る準備を世話人達がして呉れた。黒く煤《すゝ》けた天井を洗つたり、破れた壁をざつと紙で貼《は》つて膳《つくろ》つたり、囲炉裏《ゐろり》の縁を削つたり、畳を取り替へたりして、世話人達は新しい住職のやつて来るのを待つた。庫裡の前の庭も皆なしてかゝつて綺麗に掃除した。
「長い間、無住にして置いたので、金はいくらかは出来てるだで、二三年したら、本堂の修繕も出来ると思ふが、まア、それまでは我慢してゐて下せい。これも先々代の寺だと思つてな。」かう世話人達は新しい住職に話した。

     三

「老僧だツて、決して女戒《によかい》を守つた人ではなかつた。」
 かれはかう思はずには居られなかつた。……ふとある光景が浮んで来た。それは新しい住職がまだ此寺に貰はれて来たばかりの時であつた。老僧も六十位であつた。ふと二階へあがつて行く。さつきの女がまだゐる。綺麗な女が……。時々やつて来て三味線なんかを弾《ひ》く女が……。扉《と》を明けると、老僧の赤い顔、太い腕、女の変に笑つた顔!
 と、今度はそれとは違つたあるシインが浮び出して来た。かれはもう十五六であつた。
 かれは庫裡の玄関のぢき傍の三畳――さつきそこをかれは明けて見た。一杯|蜘蛛《くも》の網《す》、山のやうに積つた塵埃《ごみ》、ぷんと鼻を撲《う》つて来る「時」の臭ひ、なつかしく思つて明けては見たが、かれはすぐその扉を閉めて了つた。その三畳の格子《かうし》の前のところで、軽い艶《なまめ》かしい駒下駄の音が来て留つた。かれは幼心《をさなごころ》にもそれが誰だかちやんと知つてゐた。そこから真直に向うに行くと、鐘楼《しようろう》――それは今でもある、その鐘楼の隣の不動堂、蝋燭《らふそく》の灯、読経《どきやう》の声、消えたことのない不断の火、その賑かな光景の向うには、更に一層賑かな明るい灯、料理店、湯屋、三味線の湧《わ》くやうにきこえる音《ね》、月の光の下に巧い祭文語《さいもんがたり》が来て、その周囲《まはり》に多勢の男女を黒く集めてゐる――そこからその軽い艶《なまめ》かしい足音がやつて来たのであつた。
 かれは黙つて経を前にして坐つてゐる……。と、ことことと音がする。唾《つば》で窓の紙をぬらす気勢《けはひ》がする。黒い瞳《ひとみ》をした二つの笑つた眼が其処に現はれた。
「慈海さん!」
 かうその静かな声で言つた。
 黙つてゐる。
「慈海さん!」
 まだ黙つてゐる。
 しかしかれは自分の小さな心臓の烈《はげ》しく動くのを感ぜずには居られなかつた。二つにわかれた心、その幼い時ですら、かれはその「二つのわかれた心」を既に深く経験してゐた。その涼しい二つの眼ではない方の眼、可愛い涙をふくんだやうな眼、それでゐて怒るとこはい眼、さういふ眼をかれは恐れた。その眼がすべてかれの後にゐるやうな気がした。
「慈海さん!」
 また女は呼んだ。
「あとで、あとで……」
「そんなことを言つちや、いや――」
 かう言つて頭を振つてゐるのが窓に映つて見える。
「ぢや、待つて……」
 かう言つてかれは立上つた。
 かれは其処を出て、この庫裡《くり》――囲炉裏《ゐろり》のあるこの庫裡に来た。今と少しも変らないこの庫裡に……。現に、その板戸がある。竹と松の絵が黒く烟《けむり》に煤《すゝ》けた板戸が依然としてある。その庫裡に何のために? その一つの心をわけた方の怒るとこはい眼が何処にゐるかを見るために――。
 幸ひにその眼は其処にゐなかつた。かれはこつそ
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