りと玄関の戸を明けて、そして戸外《おもて》へ出た。月の美しい夜であつた。樹と樹と重り合つた黒い影がところ/″\に絣《かすり》のやうなさまを展《ひろ》げた。本堂の灯がぽつつりとさびしく見えた。
 かれはあたりを見廻した。
 其処にゐる筈の女の影が何処に行つたか見えない。屹度《きつと》調戯《からか》ふつもりに相違ない。かう思つて静かに樹の影の中に入ると、影と影の重《かさな》り合つた中に、更に濃い影があつてそれが動いてゐる。急に、微かに笑ふ声がした。つゞいてかれは柔かい女の腕《かひな》の自分に絡《から》みついて来るのを感じた。女の髪の匂ひがした……。
「慈海さん。」かう微かに女は言つた。
 こんなことをかれはもう何年にも思ひ出したことはなかつた。それも、かれが深く恋したやさしい涙を含んだ眼の方を思ひ出さずに、却《かへ》つてそれを思ひ出したといふことが不思議であつた。
 その心が、そのやさしい心が、又は男を思ふ心が、今だに、二十五六年を経過した今だに、そこに残つてゐて、その窓の下の空気の中にちやんと残つてゐて、そしてそれが自分の心に迫つて来たのではないか。かう思ふと、かれは不思議な一種の恐怖を感じた。
 もう死んでゐるのかも知れない。弱い身体《からだ》の女だつたから、おとなしい女だつたから、不仕合せな女だつたから……。と、その肉体が亡《ほろ》びて、その思ひだけがその空気の中に生きて動いてゐるのかも知れなかつた。そんなことはない筈だ。かう打消しても打消しても、矢張それがついて廻つた。
 ふと気がつくと、自分は蚊帳《かや》の中に寝てゐるのだつた。それは囲炉裏《ゐろり》のある隣の一間であつた。世話をする婆さんの寝てゐるいびき[#「いびき」に傍点]の音は向うの間《ま》からきこえて来てゐる。蚊のぶん/\唸《うな》る声が聞える。かれは容易に眠られなかつた。
「遠い昔だなア――」
 かう思ひあつめたやうにしてかれは考へた。
 此間も一度さういふことを考へたが、その夜もかれはかれ自身と放蕩《はうたう》無残な行為をした兄弟子との二つの生活をつづいて考へずには居られなかつた。兄弟子は慈雲と言つた。かれより四つ五つ上であつた。学問も出来て老僧の気に入つてゐた。老僧の了簡《れうけん》では、それを柔《やさ》しい涙を含んだ眼の持主の配偶者にしようと思つたらしかつた。現に、かれが寺から東京へ、僧から俗へと移つて行つたのも半ばそのためであつたのであつた。十九でかれはそれまで学んだ仏の道を捨てた。それからそれへと種々《いろ/\》なことをして歩いた。台湾にも行けば満洲にも行つた。仏の戒めた戒律をわざと破つて行くやうに見えるほどそれほど荒《すさ》んだ生活をやつて来た。或は寺にゐられなくなつた兄弟子よりも、もつともつと烈しいデカダンの生活を送つて来たかも知れなかつた。
 寺の世話人――今度此処にかれを伴《つ》れて来た寺の世話人に東京でゆくりなく逢《あ》つた時、かれは寺のことを聞き、老僧のことを聞き、兄弟子のことを聞き、最後に柔しい涙を含んだ眼の持主のことを聞いた。
「さうですか、K町に行つてゐますか。K町の商人の妻になつてゐますか。それは何より結構ですな……。子供は? へゝえ、御座いませんか。一体、何方《どちら》かと言へば体の弱い女でしたからな。」
 かう何気ない風をしてかれは言つた。
 世話人の話で、かれは始めてその寺の娘が兄弟子の妻にならなかつたことを知つたのであつた。世話人はつゞいて話した。「いゝえ、別にさういふわけではないんですけれども、……老僧のある中は、隠居してからも、先代は固かつたのですけれども。ふとしたことから……、さア、そのふとしたことは何ういふことかわかりませんけれど、兎に角、急にあゝいふ風に、悪魔でも魅入《みい》つたやうになつて了つたものだから。」
「娘の片附いたのは、老僧が死んでからですか?」
「いえ/\、貴方《あなた》が寺をおいでになつてから二年ほど経《た》つか経たないほどです。」
「さうですか……」
 意想外な気がかれにはした。
 それからそれへと種々なことを思つてゐる中に、かれはいつとなく睡眠《ねむり》の襲つて来るのを感じた。そのまゝぐつすりと寝込んで了つた。
 朝起きると、日がもう高くあがつてゐた。婆さんはもうとうに起きて、広い勝手元で、昔のまゝの土竈《どべつつひ》で、釜《かま》と火箸《ひばし》で朝飯を炊《た》いてゐるのを見た。何を見ても、昔のことが思ひ出されないものはなかつた。かれは夏草に半ば埋められた井戸を見た。本堂から山門につゞいてゐる長い敷石を見た。それも依然として元のまゝである。唯、その時分には掃除が綺麗に行届いて、その石に添つて松葉牡丹《まつばぼたん》の赤く白いのが長く見事に咲き続いてゐた。
 かれは横楊枝《よこやうじ》で歯をみが
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