きながら、鐘楼から、昔賑かであつた不動堂の方へと足を運んだ。そこでは不動堂の他《ほか》にかれは残る何物をも発見することが出来なかつた。門前町と言ふほどではないが、一時は両側に人家が並んで、参詣者《さんけいしや》がかなり遠い処からやつて来た。やれ護摩《ごま》をたけの、やれ蝋燭《らふそく》を呉れのと言つて、かれも慈雲も忙しい思ひをした。しかもその人家は「時」の大きな手にすつかり掃《はら》つて取去られて了つたかのやうに一軒もそこに見出されなかつた。すつかり桑畠《くはばたけ》と野菜畑とになつてゐた。何う考へて見ても、其処にあの遊蕩《いうたう》の気分が渦巻《うづま》き、三味線の音が聞え、赤い裾《すそ》をチラホラさせた色の白い女達が往来し、老僧は老僧で、同じ年恰好《としかつかう》の世話人と一緒にあの湯屋の二階の女を傍《かたはら》に終日碁を打つてゐたとは思へなかつた。かれは不思議な気がした。瞬間も「址《あと》」をつくらずに置かない「時」が恐ろしいやうな気がした。そしてその「址」が唯だ「址」として埋められては了はずに、いつかそれの再び蘇《とみがへ》つて来ずには置かないやうな気がした。
かれはもう不動堂の中の荒廃した形をのぞいて見る元気も何もなかつた。昨年のあの時から習癖になつた恐怖――いつ襲つて来るか知れない災厄の恐怖がかれを少からず不安にした。かれは急いで庫裡《くり》の方へと引返した。
四
自分ももう少しであの「恐ろしい群」の一人になるところではなかつたか。あの時もし東京にゐたならば――。
外国でなければ見ることの出来ないやうな事件、乃至《ないし》は空想したロオマンスででもなければ出逢ふことの出来ないやうな事件、かれ等は皆な獣のやうに一人々々引き出されて、断罪の場にひかれて行つたのであつた。
意志の実行――意志の実行のために虐《しへた》げられた人間の魂ではなかつたか。あらゆることを実行しても差支ない。世に罪悪と言ふものはない。悪と言ふものはない。唯自由があるばかりである。責任を負ひさへすれば――。かう言つたが、その責任が即《すなは》ちかれ等の死ではなかつたか。
その意志の実行は、果して死を価値してゐたか否か。飜《ひるがへ》つて考へて見なければならない余地はないか否か。かれ等は少くとも犬死ではなかつた。すぐれた芽《め》を蒔《ま》いたには相違なかつた。しかしその芽を蒔かなければならないほどの必要をかれ等の魂は感じつゝあつたのであらうか。
かれは失敗して本国に帰る舟の中でそれを聞いた。かれはその時の烈しいショックを忘れることが出来なかつた。急にかれの世界は狭くなつたやうな気がした。其処にも此処にも自分を監視する眼がついて廻つてゐるやうな気がした。かれは自分の舟の本国に向つて航しつゝあるのを恐れた。かれは船室の中にのみ閉籠《とぢこも》つた。
エイア・ブウルからは美しい碧《あを》い海が見えた。行つても行つても海である。掀翻《きんぽん》し、飛躍し、奔跳《ほんてう》する海である。その上には時には明るい朝日が照り、わびしい黄《きいろ》い夕日が落ち、赤い湧《わ》くやうな雲が浮んだ。「群」の人達の記憶は払つても払つても絶えずかれの魂を襲つた。かれは時にはいつそ身を海中に躍《をど》らせようと思つて甲板《かんぱん》の上を往来した。
――「何《ど》うです、一度故郷の寺に帰る気はありませんか。あなたが跡をついで下さるなら、それに越したことはないのですが、世話人達も、村の者共も、貴方《あなた》ならば喜んでお迎へするにきまつてをりますが。」かうその世話人から言はれた時には、そこより他《ほか》に、その古い人知らない田舎《ゐなか》の廃寺より他に、自分の身を、体を置くところはないやうにかれは思つた。老師の魂が荒《すさ》んだ自分の魂を救つて呉れるやうにすらかれは思つた。
かれは尠《すくな》くとも落附いて考へて見なければならないと思つた。これまでに自分のやつて来たことは、すべて皆な失敗に終つた。あらゆる悲喜、あらゆる事業、あらゆる思想、すべて皆な不自然であつた。自由を欲する――唯この一語にすら、かれはあらゆる矛盾と撞着《どうちやく》とを感じた。意志と魂との区別も、もつと深く静かに考へて見なければならなかつた。それには、田舎《ゐなか》の山の中の寺、廃寺、何の束縛もないのが好いと思つた。余りに多く世に染まりすぎた。世間と人間とに捉《とら》はれすぎた。静かに休息させて下さるなら……一二年行つて見たいからといふ手紙をかれは世話人に書いた。
かれは郊外の或る家に置いた自分の書籍――かれやかれの「群」が一生懸命に読んだ書籍、パンの問題、精神の問題、自由意志の問題、さういふことを書いた沢山の書籍をある日古本屋を呼んで売つた。古本屋は何も知らない半ば老いた男であつ
前へ
次へ
全20ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング