た。この書籍の中に、人間の意志が、魂が、恐怖が、事件が一々こもつてかくされてあるのは夢にも知らずに、平気でそれに評価をつけて、銭をちやら/\そこに勘定して置いて、そしてそれを背負つて行つた。
 かれはあらゆるものを捨てて、着物を入れた行李《かうり》一つを携へて、そしてこの故郷の寺へと来た。

     五

 寺に来てから、かれは種々《いろ/\》な人達に逢つた。世話人の重立つた人達、それは昔見た時よりも年を取り白髪《しらが》が多くなつてゐるばかりで、矢張或者は青縞《めくらじま》の製織に、ある者は小作の取り上げに、或者は養蚕《やうさん》の事業に一生懸命に携はつてゐるのを見た。世の中にあつた種々な大事件、恐ろしい戦争の殺戮《さつりく》、無辜《むこ》のものの流るゝ血、乃至《ないし》は新しい恐ろしい思潮、共同生活を破壊する個人思想、意志と魂との扞格《かんかく》、さういふものがこの世界にあらうなどとは夢にも知らずに、朝は早く起き、夜は遅く寝て、唯その家業にのみいそしんでゐるのであつた。かれ等は広い世の中を知らなかつた。都会の生活をも知らなかつた。文明といふことも、新聞の上で見るばかりで、それが果して何《ど》んなものであるか、何ういふことであるかを知らなかつた。いろ/\な恐ろしいこと、醜いこと、聞くさへ眉の蹙《ひそ》められるやうなこと、さういふことも、ほんの一時の黒雲の影のやうなもので、その耳目から早く/\通過して行つた。そしてあとには田舎《ゐなか》の平和がいつも残つた。
 かれ等の若い者は、婚し、生殖し、生活して、唯年月を経て行くのであつた。かれ等は循環小数のやうに子供から大人になり大人から老人になり老人から墓になつて行くのであつた。春が来て花が咲き、秋が来て紅葉《もみぢ》が色附き、冬は平野をめぐる遠い山の雪が美しく日に光つた。
「何うも今年は雨が少くつて、田植にも困つた。一雨来れば好い。」
 かれ等は何百年前から繰返した黴《かび》の生えたやうな言葉をくり返してのんきに生活した。
 勿論《もちろん》、その間にも、家々の浮沈がないでもない。それはかなりにある。ある家では息子が放蕩《はうたう》で田地の半《なかば》を失つた。ある家では養蚕に成功して身代がその三倍になつた。ある家では次男息子が学問好きで大学まで行つてこの夏学士になつた。かれの知つてゐる、かれと同じに遊んだ貧乏人の息子は、田舎ではどうすることも出来ないので、東京へ出かけて行つて、種々《いろ/\》の艱難辛苦を嘗《な》めた挙句、貧民窟《ひんみんくつ》近くに金貸の看板をかゝげて、十年間に巨万の財産を造つた。今では東京に大きな邸宅を構へて、大名のやうな生活をしてゐるといふことであつた。
 これが世の中の変遷である。しかし、さういふことが、さういふ表面の漣《さゞなみ》が、どれだけの意味を持つてゐるのであらうか。かうは思ふものの、かれは時々、「それが人生ではないか。それが本当の人生ではないか。自分のやつて来た生と死、恋愛、個人と自由、さういふことは、余り深く自己に執着しすぎたためではないか。」といふやうにも飜つて考へて見た。
「そんなことはない。」
 かれはすぐかう打消した。
 かれはあらゆる艱難《かんなん》の中をも、巴渦《づまき》の中をも、恐怖の中をも通つて来た。そしてその中からすぐれた真珠の玉のやうな宝をつかんだと思つた。しかし、つかんだと思つたその珠《たま》は、いつの間にかかれの掌中《しやうちゆう》から落ちて行つてゐた。
 かれは時には一里ほどある町の方へと出かけて行つた。麦稈帽《むぎわらばう》をかぶつた単衣《ひとへ》に絽《ろ》の古びた羽織を着たかれの姿は、午後の日の暑く照る田圃道《たんぼみち》を静かに動いて行つた。町は市日《いちび》で、近在から出た百姓がぞろ/\と通つた。種物屋の暖簾《のれん》は、昔と少しも異《かは》らずに、黒い地に白く屋号をぬいて日に照されてゐるのを見た。氷屋の店では、赤い腰巻をした田舎娘《ゐなかむすめ》が二三人腰をかけて、氷水を匙《さじ》ですくつて飲んでゐた。
 ある店の前を通ると、
「慈海さんぢやないか?」
 かうある婆さんがいきなり呼んだ。ちよつとはその誰であるかがわからなかつたが、暫くしてそれは不動堂の前の湯屋をした上《かみ》さん――その時分は三十位でいき[#「いき」に傍点]な如才のない上《かみ》さんであつたといふことがわかつた。「まアお上り……帰つてゐるツて聞いたから、一度|逢《あ》ひたいとは思つてゐたんだよ。」かう言つてかれは無理に引上げられた。上さんは亭主に四五年前に死なれて、今は息子が家のことを万事やつてゐた。湯屋から町へ出て、今の小間物商を始めたといふことであつた。
 話の中には再び昔の不動前の賑かな光景が蜃気楼《しんきろう》のやうに浮んで来た。老
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