僧、世話人、三味線、賑かな参詣者《さんけいしや》、上さんに取つてもその一時代は追憶の最も派手なものであるらしく、それからそれへといろ/\なことが浮び出して来た。こつちから訊《たづ》ねもせぬのに、寺の玄関の三畳の窓へ来た女のことをも上さんは話した。
「あれもな、不仕合せでな。足利《あしかゞ》に行つてついこの間まで一人でゐたが、今ぢや亭主でも持つたか何うか。」
 かう上さんは話した。
 其処を出てかれは猶《なほ》あちこちと町を歩いた。上さんの話で、自分が長い年月|種々《いろ/\》な経験を体感した間に、この昔馴染《むかしなじみ》の人達がいかに生活してゐたかといふことが漸《やうや》くわかつて来たやうな気がした。かれは自分の辛い恐ろしいデカダンの生活を思ひながら、町の外れに出来た小さい停車場の方まで行つて見てそこから引返した。

     六

 かれが来て、最初にやつて来た葬式は、生れて一月しか経《た》たないといふ子供の棺であつた。
「其処へ持つて来て置いたで、ちよつくらお経を読んで呉れなせい。」父親らしい男は庫裡《くり》の入口に顔を入れてのんきさうに言つた。
 夕暮の色は既に迫つてゐた。
 かれは外に出て見た。果して小さい棺が山門と本堂との間の敷石の上に置いてあるのが白くさびしく見えた。
 かれは傍に行つた。
「穴は掘つてあるのか?」
「今、掘つてらあ!」
 見ると、もう一人の男が墓地の方で頻《しき》りに鋤《すき》を動かしてゐるのが見えた。
「本堂へ持つて行つたら?」
「さうすべいか。」かう言つたが、「新しい和尚《をしやう》さんだで、餓鬼《がき》も浮ばれべい。」
 こんなことを言つて、軽々とその棺を持つて、さながら小さな荷物でも運ぶやうにして、本堂の前の木階《もくかい》――それはひどく壊れた木階を上つて、賽銭箱《さいせんばこ》の向うに置いてある棺台の上に置いた。
 かれは古い僧衣《ころも》に袈裟《けさ》をかけて、草履を穿《は》いて、廊下から本堂の方へと行つた。もう蚊がわん/\と音《ね》を立ててゐた。歩くとそれがバラ/\と顔に当つた。
 かれは一本持つて来た蝋燭《らふそく》を取出して、それにマッチをすつて火を点《とも》した。本堂の中はもう真暗であつた。蝋燭の火は青くかれの鬚《ひげ》の濃い顔を照した。つゞいて奥に寂然《じやくねん》として端座してゐる本尊の如来《によらい》の像を微かに照した。
 流石《さすが》にかれは経を忘れなかつたが、しかし不思議な気がせずには居られなかつた。かれは読んで行く物の中に自分の遠い過去が再び蘇《よみがへ》つて来たのを感じた。始めは静かであつた声は次第に高くなつて行つた。その声の中にはまだけがれない無邪気な心が籠《こ》められてあつた。
 暫くの間、その読経《どきやう》の声は、荒れたさびしい本堂の中にきこえた。
 で、それがすむと、その父親は、そのまゝ小さな棺をかついで、サツサと墓地の方へと行つた。かれは不思議な気がせずには居られなかつた。かれはその姿の夕暮の闇の中に見えなくなるまで見送つた。
「仏は人間のことのすべてを知つてゐる。人間の犯した過去の罪を総《すべ》て知つてゐる。」かう思ふと、かれは其処に落着いてぢつとして立つてゐられないやうな心の恐怖を感じた。
 急いで庫裡《くり》へと戻つて来た。
「何故《なぜ》、あの時、あの女はあの子を抱いて井戸に身を投じたであらうか。何故? 何故?」かうかれは心の中に絶叫して、長い間その答を待つたが、竟《つひ》にその答はやつて来なかつた。自己は自己である。愛した女だとて、自己の総《すべ》てを占領することは出来ない。それが出来ない為めに死んだとて、恨《うらみ》を他《ひと》に投げかけて死んだとて、それが誰の責任になるであらう。占領させなかつたこの自己がわるいのか。それとも又それを嘆いて子を抱いて死んだ女がわるいのであらうか。かれは其時は唯、「自己」に取縋《とりすが》つて強《し》ひてその苦痛を処分した。しかしそれで完全にそれが処分され解釈されたであらうか。かれは今でもその溺《おぼ》れた女と子供とが自分に向つてその解釈を求めてゐるのを覚えた。かれはぞつとした。

     七

 渡船小屋《わたしごや》の雁木《がんぎ》がずつと川に延びて行つてゐた。そこには船が一隻|繋《つな》いであつた。人が五人も六人も乗つて、船頭の下りて来るのを待つてゐる。大きな河は伝馬《てんま》やら帆やら小蒸気やらをその水面に載《の》せてたぷ/\として流れてゐる。櫓《ろ》の声が静かに日中の晴れた水に響いた。
 帆が鳥の翼のやうに大きく動いた。
 土手の上には、人や車が陸続として通つてゐた。氷店、心太《ところてん》を桶《をけ》に冷めたさうに冷して売つてゐる店、赤い旗の立つてゐる店、そこにゐる爺《おやぢ》の半ば裸体《
前へ 次へ
全20ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング