はだか》になつた姿、をりをりけたゝましい音を立てて通つて行く自動車、川の向うに見えてゐる大きな煙突から渦《うづ》まきあがる煤烟《ばいえん》、――ふと、「あれ、あれ!」とけたゝましい声が起つた。
其方《そつち》を振向くと、丁度《ちやうど》、今|二十《はたち》位になる女が、派手な着物を着た女が、その渡船小屋《わたしごや》の雁木《がんぎ》の少し手前のところから水へと飛込んだ処であつた。
水煙がサツと立つた。
「身投げ! 身投!」
かう言ふ声が其処此処から起つた。誰の心も皆なそれに向つて躍《をど》つた。
丁度その傍《わき》を大きな帆をあげた舟が通つてゐた。舵《かぢ》のところにゐた船頭もそれを見たらしく、急いで此方《こつち》へとやつて来た。と、手が浮いた。浅黄がかつた着物と帯とが見えた。しかし、船頭の持つた棹《さを》はそこに達しなかつた。
その手は、着物は又沈んだ。あとには大きな川のたぷたぷとした滑《なめ》らかな水面。
「あゝもう沈んだ!」
「救《たす》けてやれ、おい船頭!」
暫くすると、
「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》――」
「可哀さうだわねえ。」
「まだ若いのに……」
かういふ声がした。誰も見てゐるに忍びないやうな気がした。
土手の上には、白樺色《しらかばいろ》の蝙蝠傘《かうもりがさ》と派手な鼻緒のすがつた下駄と……
かうした光景は其処にも此処にも起つた。広い世間には、かうして自《みづか》ら殺すものが何人あるかわからない。現に今でも、かうして寂然《じやくねん》としてかれが坐つてゐる間にも、さういふ悲劇が何処かで繰返されてゐるかも知れない。何のために、満たされざる心のために、辛い辛い捨てられた心のために、痛い痛い刺戟《しげき》のために……。
自ら殺さうとしたことの一度ならず二度まであるかれに取つては、さうしたシインが殊に堪へ難い刺戟を与へた。
それは近いことではなかつた。かれに取つてはもう遠い昔だ。しかしをり/\その心の光景が描き出された。二つにわけられた心と二つに突詰めた心と、この心は実は一つである。わけられる心も突詰める心も同じ心である。その区別は唯境遇に由《よ》るのである。その時の存在の形によるのである。一と一とぴたりと合つたものは幸福である。一と二と合つたものは不幸である。しかし幸福と言ひ、不幸と言つても、それは共に外形であつて、もう少し深く考へると、幸福なもの必ずしも幸福でなく、不幸なもの必ずしも不幸でない。何の故《ゆゑ》に? 一つと一つと合つたものも矢張もとは二つのもので、永久に一つであることは出来ないが故に――。一つと二つと合つたものも、遂《つひ》には一に帰さなければならないが故に――。
自己の持つたものを失ふの辛さ、自己の持ち得たと思つたものを失ふの辛さ、これほど辛いものはない。それがよく女や男を川へと伴《つ》れて行く……。
かれは其処まで考へて、大きな溜息を吐《つ》いた。そこに大きな欠陥があるやうな気がした。染まるべからざるものに染つて行く可能性を賦与《ふよ》した自然は? 絶対に自己のものにする事の出来ないものを自己のものとなし得る可能性を賦与した自然は? 満されたる心の飽満から生ずる倦怠《けんたい》、餓《う》やされたる心の寂寥《せきれう》から起つて来る憧憬《しようけい》、これは実は一つであるのではないか。同じことではないか。
しかし満されざる心と餓やされたる心とは同じでない。飽満《はうまん》と寂蓼とは同じでない。倦怠と憧憬とは同じでない。それでゐてこれが同じであると言はなければならなくなるのは何の故であらう。死にまで深く染着《せんちやく》した心は美しくはないか、勇ましくはないか、雄々しくはないか、また優しく悲しくはないか。これが人間の最後の「詩」であり且《か》つ「宗教」ではないか。
文明は虚偽を生んだ。デカダンを生んだ。勝者の権利を生んだ。「自己」を生んだ。現にかれなどはそれを真向《まつかう》に振翳《ふりかざ》してこれまでの人生を渡つて来た。智慧《ちゑ》を戦はして勝たんことを欲した。自己の欲するまゝにあらゆるものを得んことを欲した。そのために、かれには富んだもの栄えたもの主権を把持《はぢ》したものがその対象となつた。山も丘も平野も一緒に平らにならなければならないと思つた。
しかし平等は物質にあるのではない。人生と人性との表面にあるのではない。勝利者にあるのではない。智慧《ちゑ》と手段とを戦はして勝つたところにあるのではない。かう考へると、「恐ろしい群」の人達のことが、再びかれの胸に迫つて来た。折角《せつかく》さぐり出した秘密の糸がそこでぽツつり絶えてゐるのを感じた。
「あゝ、もうよさう、考へるのは止さう。もつと静かに休まなければならない体だ。何事をも捨てたやうに、この簇《むらが》つ
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