れた日に、かの女はガタ馬車で出かけた。指折り数へて見ると、もう十二三年、それ以上もその故郷に行つて見たことはなかつた。町が近づくにつれてその心は躍《をど》つた。やがて昔馴染《むかしなじみ》の町や人家や半鐘台や小学校があらはれた。やがて馬車の継立場《つぎたてば》に来て下ろされたかの女は、一番先に、その近くにある懇意なある家に寄つて寺のことを訊《き》いた。
噂に聞いたどころではなかつた。それは非常な評判であつた。「生仏《いきぼとけ――」かう言つてその人も話した。
上さんの胸は愈々《いよ/\》躍《をど》つた。何より先に、車をさがした。そしてそこから一里位しかない村へと志した。
上さんは不思議な念に燃えた。数珠《じゆず》を持つてゐたならば、それを繰《く》つて、幼い時に覚えたお経の一節を誦《ず》したいと思ふほどであつた。そしてその渇仰の念に雑つて、昔の幼かつた時分のことが、美しく彩《いろど》られた絵になつて見えた。次第になつかしい村は近づいて来た。
林、それにつゞいた森、その間からは寺の屋根が見える筈であつた。果して少し行くと見え出して来た。その壊れた屋根が、山門が、境内が、例の酒を禁じた石と鼻の欠けた地蔵尊とが……。上さんは胸がある聖《きよ》い尊い物に圧《お》しつけられるやうな気がした。
「そこで好う御座んす。」
で、車を下りて、上さんは静かに山門の中へと入つて行つた。銀杏返《いてふがへし》に結つた髪、黒の紋附の縮緬《ちりめん》の羽織、新しい吾妻《あづま》下駄、年は取つてもまだ何処かに昔の美しさと艶《あで》やかさとが残つてゐて、それがあたりの荒廃した物象の中にはつきりと際立《きはだ》つて見えた。
破れてはゐるが昔のまゝの寺である。昔のまゝの長い敷石である。井戸も深い草の中に埋れてはあるけれども昔のまゝである。かの女はさま/″\の思ひに満されながら庫裡《くり》の方へ行つた。
其時分には慈海はもう一人ではなかつた。群集の中の信者は、代り代りにやつて来てゐた。出来るならば、師の洗ひすゝぎをさせて頂きたい、朝夕の食事の世話をしたい、水を汲んで上げたい、高恩に報ゆるための労働に服したい。かう言つて、信者の男女《なんによ》はやつて来た。現に、かの女の行つた時にも、若い老いた女や男が五六人庫裡に集つて経を誦《ず》してゐるのを見た。
かの女は有難《ありがた》いやうな尊いやうな悲しいやうな涙の溢《あふ》れて漲《みなぎ》つて来るのを感じた。上さんは暫《しば》し立尽した。
信者達の熱心な誦経《ずきやう》の声はあたりに満ちた。取附く島もないやうにして上さんは立つてゐたが、やがて庫裡《くり》の奥から五分刈位に髪の毛を延した鬚《ひげ》の深い僧が此方にやつて来た。それはかれであつた。
かれはちよつと此方を見た。しかし別にこの不意の訪問に驚くといふやうな風もなしに、黙つてぢつと其処に近寄つて来た。さながらかの女の来るのを今日は待つてゐたと言はぬばかりに――。
少くとも上さんには無量な感慨が集つて来た。何を言つて好いか、何から話して好いかわからないほど胸が一杯になつた。しかし昔馴染《むかしなじみ》と言ふやうな、又は昔の恋人と言ふやうな単純な気分ではなかつた。凝《ぢつ》として見詰めて立つた彼の前に、かの女の頭はおのづから下つた。
長い間抱いてゐた苦痛、重荷、罪悪――さういふものをすつかりそこに投出して、かの女は思はず合掌した。
かれは手を合せながら唯一言かの女に言つた。
「今日からは、仏の道に、まことの道に……」
「難有《ありがた》う御座います。」
かうかの女は微かに言つた。
上さんはかれの足を洗ふ資格すら自分にないやうな気がした。路々いろ/\に考へて来たことも、つひに一言も言ひ得なかつた。
暫くして、本堂の前に行つて端坐したかれは、長い長い間、誦経《ずきやう》の声をやめなかつた。それは皆なかの女の為めに、罪の多いかの女のために……。
其処に集つた信者達は、それにつれて皆な熱心に声を張上げて誦経した。崇厳《そうごん》な気分があたりに満ちわたつた。
上さんは遂に信者達と其処に二日滞留して合掌誦経した。かの女も亦《また》他の人達と共に熱心な信者の一人となつた。
その話――この一条の話は、上さんの口からやがて人々に伝へられた。「ちやんと、私のやつて来るのを知つていらしつた。もう来さうなもの、来さうなものと思つて待つていらしつた。私の罪の為めに誦経して下すつた恩は、恋人の情よりも、親の恩よりも深い。」かう言つて上さんは話した。
それを聞いた多くの女達は、皆な随喜の涙を流した。
十七
その平野の中でも、富豪として、品位ある旧家として知られてゐるS村のK氏の邸は、綺麗に刈込んだ樫《かし》の垣を前に、後に深い杉の森を繞《めぐ》ら
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