あとの不動不壊《ふどうふゑ》の相の名残《なごり》なくあらはれてゐるのを発見した。今まで広い空間に孤独を歎き、一人を歎き、自然の無関心を慨《なげ》いた自己は、杳《はる》かに遠い過去に没し去つた。今はその如来の像はかれに向つて話し懸けた。又かれに向つて微妙《みめう》不可思議の心理を示した。
仏の前に端坐読経してゐる時ばかりではなかつた。日常の坐臥進退にも、その本尊は常にかれと倶《とも》にあつた。かれと倶に笑つた。かれと供に語つた。古い長火鉢の前に坐つた時にも、七輪の下を煽《あふ》いでゐる時にも、暗い夜の闇の中に坐つてゐる時にも、をり/\飆風《はやて》のやうに襲つて来る過去の幻影の混乱した中にも……。
かれの姿はをり/\寺の境内《けいだい》の中に見えた。幾日も頬に剃刀《かみそり》を当てたことがないので、鬚《ひげ》は深く顔を蔽《おほ》つた。誰が見ても、かれが此処にやつて来た時の姿を発見することが出来なかつた。かれは夥《おびたゞ》しく変つた。
かれの立つてゐる垣の傍《かたはら》には、紅白の木槿《むくげ》の花が秋の静かな澄んだ空気を彩《いろど》つて咲いてゐた。
十
「何うかしたな。気がふれたぢやないかな。」
かう世話人は言つた。
「あゝして一人でゐるんだから、それも無理はないな。困つたもんだな。此頃は丸で此方《こつち》の言ふことなどは取り合はないつて言ふ風だからな。」
かう言つて、ある人は首を傾けた。種々《いろ/\》な人々が種々のことを言つた。
米をきまつて運んで行く一人は、「此間なんか、つい自分の忙しいのにかまけて、二三日米を持つて行くのを忘れてゐて、あわてて持つて行くと、もう櫃《ひつ》には米は一粒も残つてゐない。あの和尚《をしやう》め、一日二日米を食はずにゐたと見える。」
「それで何とも言つて来ないのか。無けりや、乾干《ひぼし》になつても食はずにゐるのか。何うしても変だな、不思議だな。」考へて、「此頃は前よりも一層何も言はなくなつて了《しま》つた。前には寺のことなどいろ/\心配したり何かしたが、此頃では、もうそんなことは少しも言はない。唯、黙つて聞いてゐる。困つたものだな。」
寺の近くに住んでゐるある百姓の嚊《かゝあ》は言つた。
「すつかり変つて了つた。もう元のやうな姿はなくなつた。そして、いつでもお経べい読んで御座らつしやる。此間、本堂の前で出会《でつくは》したから、お辞儀をしたが、黙つて莞爾《にこ/\》と笑はしやつた。えらく痩《や》せなすつたな。」
それでゐて、葬式が行くと、どんな貧乏なものでも、乃至《ないし》は富豪でも、同じやうな古い僧衣《ころも》を着て、袈裟《けさ》をかけて、そして長い長い経を誦《ず》した。そしてその声も始めに比べて、次第にその声量を増し、威厳を増し、熱意を増して来るのを誰も認めた。淋しい大破した本堂の中に漲《みなぎ》り渡る寂滅《じやくめつ》の気分は、女や子供、乃至《ないし》は真面目に考へる人達の心を動かさずには置かなかつた。他の寺の僧達の誦《ず》した読経《どきやう》ではとても味ふことの出来ない微妙《みめう》な深遠な感じに人々は撲《う》たれた。
さま/″\の評判の中《うち》に、秋は去り、冬は来た。木の葉は疎々《そゝ》として落ち、打渡した稲は黄《きいろ》く熟した。ある朝は霜《しも》は白く本堂の瓦の上に置いた。村の人達は段々|朝毎《あさごと》の寺の読経の声に眠《ねむり》をさまされるやうになつた。
十一
「浄乞食《じやうこつじき》――浄乞食。」
口の中にかう言つて、かれは僧衣《ころも》の上に袈裟《けさ》をかけて、何年ともなく押入の中に空しく転《ころが》つてゐた鉄鉢《てつばつ》を手にして、そして出かけた。
かれは藁草履《わらざうり》をつツかけて穿《は》いた。かれは寺を出て、一番先に、近所にある貧しい長屋の人達の門《かと》に立つた。
破れた笠《かさ》の中からは、かれの熱した眼が光つた。
「オ、オ、オー、オー。」
と言つて鈴を鳴した。
ある老婆が、最初に五厘銭を一つその鉢の中に入れた。
かれに取つては、それは最初のまことの喜捨であつた。かれは老婆の冥福《めいふく》を祈つて長い間読経した。
「乞食坊主《こじきばうず》、乞食坊主――」
あるところでは、大勢の子供達がかれの周囲《まはり》を取巻いた。
かれはをり/\路の真中に立留つて読経した。
家から家へとかれは行つた。ある家では、
「まア、お寺の和尚ぢやないか。托鉢《たくはつ》に出なすつたがな。世話人たちは何うしたんぢやな、米も持つて行つて置かないと見えるぢやな、もつたいない。」などと言つて、袋に入れた米を渡した。
かれの眼には、到《いた》るところでいろ/\な光景が映つた。収穫の忙しい庭、唐箕《たうみ》のぐる/\
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