には裏の林の木《こ》の葉《は》が雨に濡《ぬ》れて散り込んで来てゐる。銀箭《ぎんせん》のやうな雨脚が烈しく庭に落ちて来てゐるのが、それと蝋燭《らふそく》の光に見える。裏の林は鳴つて、枝と枝との触れる音、葉と葉とのすれる音が一つにかたまつて轟《ぐわう》と言ふ音を立てた。空は墨を流したやうに暗かつた。
ともすると風に吹き消されさうになる裸蝋燭を袖で護《まも》りながら、一歩々々長い廊下を歩いて行くかれの蒼白《あをじろ》い鬚《ひげ》の深い顔が見えた。それは丁度《ちやうど》罪悪の暗い闇夜《あんや》に辛うじて仏の慈悲の光を保つてゐるやうに、又は恐ろしい心の所有者が闇の中に怖《おそ》れ戦《をのゝ》いてゐるかのやうに……。
廊下の途中で、かれはまた凄《すさま》じい風雨の吹き込んで来るのに逢《あ》つて、立留つて、その蝋燭の火を保護した。
轟《ぐわう》といふ音、ザアと降る音、それがあとからあとへと続いてやつて来た。樹の鳴る音、枝の撓《たわ》む音、葉の触れ合ふ音、あらゆる世の中の雑音《ざふおん》、悲しいとか佗《わび》しいとか辛《つら》いとか恨《うら》めしいとかいふ音が一斉に其処に集つてやつて来たやうにかれは感じた。
かれは漸《やうや》く長い廊下を通り越して、本堂へ入つて行く扉の前に行つて、静かにそれを明けた。
闇にもそれと見える屋根や庇《ひきし》の壊れたところから、車軸のやうに雨は落ちて来てゐた。堂の板敷はすべて水で満たされてあつて、それに、かれの手にした蝋燭が微かに照つた。
この風雨の凄《すさま》じい音の中に、この洪水《こうずゐ》のやうになつた大破した堂宇《だうう》の中に、本尊の如来仏《によらいぶつ》は寂然《じやくねん》として手を合せて立つてゐられるのである。かれは自分の体が、魂が、又は罪悪が、欲望がすつかり仏に向つて靡《なび》いて行くのを感じた。かれはこの世では見ることも味《あぢは》ふことも出来ない光景に出逢つたやうな気がした。かれの口からは思はず仏を念ずるの声が出た。
贖罪《しよくざい》――神の贖罪、仏の贖罪と言ふことが、漲《みなぎ》るやうに、今迄つひぞ感じたことのないほどの強さを以てかれの総身に迫つて来た。かれはそのまゝ手にした蝋燭を燭台の上に立てて、そのまゝ仏の前に来て坐つた。
一しきり読経《どきやう》の声が風雨の吹き荒るゝ中に聞えた。
九
新しい覚醒が来た。
恐怖を感じ、寂寞《せきばく》を感じ、孤独を感じ、倦怠《けんたい》を感じた時にのみ仏の前に行つて手を合せたかれは、今では自ら進んでその本堂の本尊の前に行くやうになつた。最早かれの読経《どきやう》はかれのための読経ではなかつた。また仏に向つて合掌するかれの手は、かれのための合掌|礼拝《らいはい》ではなかつた。新しい力はかれの魂を蘇《よみがへ》らせた。かれはかれの後半生を仏の功徳《くどく》を讃するために用ゐることを悔いなかつた。
不思議の心理ではないか。また不思議な顛倒《てんたう》ではないか。かれは今まで消極的であつた自己を最早何処にも見出すことが出来なかつた。かれを苦しめたあらゆる幻影、恐ろしい溺死の光景、恨《うらみ》を含んだ心の形のあらはれた光景、絞首《かうしゆ》の刑に逢つた「恐ろしい群」の人達の光景、さういふ無限のシインは最早かれを脅《おびや》かすことはなかつた。新しい力は満ちた。
貧、苦、乏、病に満ちた世界である。それは皆な我《われ》に着いたために起つて来たあらゆる光景である。ある国はある国と争つて、無辜《むこ》の血を流してゐる。ある人間はある人間と争つて、互に虚偽の勝敗を争つてゐる。デカダンはデカダンと相食《あひは》んでゐる。悪と悪とは互にその牙《きば》を磨いてゐる。それは皆な我に着《ちやく》した処から起つて来る。現に自分すらその染着《せんちやく》を捨てることが出来なかつた。捨てることの出来ないがために、かれは「幻影」に脅《おびや》かされた。この「幻影」――あらゆる世間の人達を絶えず苦しめるこの「幻影」のために、仏の前に手を合せなければならないと思つた。
ある日は殆《ほとん》ど一日本尊の前に行つて読経《どきやう》した。世話人がやつて来て、用事を話さうとしても、かれは竟《つひ》に其処から立上らうともしなかつた。世話人は仕方がないので、一度帰つてそして又やつて来た。矢張かれは読経を続けてゐた。
寂然《じやくねん》として端坐してゐる如来像《によらいざう》、それはもう昔の単なる如来像ではなかつた。ある時ある人の手で鋳《い》られたブロンズの仏像では猶更《なほさら》なかつた。かれは其の端麗な顔に、人間の慈愛を発見し、その威厳を保つた表情に人性の根本に横《よこたは》つた金剛の相を発見した。そしてまたその寂滅《じやくめつ》の姿には、着したものを拭ひ去つた
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