廻つてゐる家、あるところでは、若い女が白い新しい手拭で頭を包んで、せつせと稲を扱《こ》いてゐた。誰も彼も世のしわざにいそしんでゐた。しかし、この穏かな平和な田舎《ゐなか》も、それは外形だけで、争闘、瞋恚《しんい》、嫉妬《しつと》、執着《しふぢやく》は至る処にあるのであつた。道ならぬ恋の罪悪、乾くことなき我慾の罪悪、他を陥れなければ止まない猜疑心《きいぎしん》、泥土《でいど》に蹂躙《じうりん》せられた慈悲、深く染着《せんちやく》しつつもその染着をわるいと思はない心、さういふ光景は一々かれの眼に映つて見えた。
 ある大きな家では、かれは長い間立つて読経《どきやう》した。
「出ないと言ふのに、うるさい坊主だな!」
 かういふ主婦の尖《とが》つた声がした。
「やれよ、やれよ、一文やれよ、うるせい坊主だ。」
 かういふ主人らしい男の声が奥からきこえた。
 やがて五厘銭は投入れられた。
 しかしかれは読経の声をやめなかつた。また容易にそこを立去ることをしなかつた。静かにかれは読経をつゞけた。
 かれ自身にもそれはわからなかつた。何ういふ理由で、その家の前で、さうして長く立留つて読経しなければならないかと言ふことが解らなかつた。不思議の奇蹟《きせき》がかれの心の周囲をめぐつた。
 幼時に習つた経文に書いてあつた奇蹟、そんなことがあるわけがないと思つたやうな奇蹟、それが今不可思議の事実としてかれの前にあらはれて来た。古来存在した幾万億の仏達、菩薩《ぼさつ》達の行《おこなひ》が、言葉がかれの心に蘇《よみがへ》つて来た。
 かれの姿はあちこちに見えた。時には寒い碧《あを》い色をした小さな沼の畔《ほとり》の路に見えた。時には川添《かはぞひ》の松原のさびしい中に見えた。かと思ふと、ある小さな町の夕日を受けた家並《やなみ》の角に見えた。
 寒い西風の吹き荒るゝ路を静かに歩いて通つてゐたりした。
 かれは日毎に出懸《でか》けては、家々の軒に立つた。
 辛い悲しい生活をかれは其処此処で見かけた。しかしさうした生活以上に我々人間の大切なことがあるのを誰も知らない。人々はそれを知らないがために苦しんでゐる。慨《なげ》いてゐる。その無智な、無辜《むこ》の人達のために、殊にかれは手を仏に合せなければならないことを思つた。

 ある寒い夕暮に、かれは自分の居間で黙つて坐つてゐた。かれの衣《ころも》は薄く且《か》つ汚れてゐた。破れたところをかれは自分で処々|繕《つくろ》つて着た。
「御免なさい。」
 かういふ声がした。
 しかしそれはやさしい声だ。若々しい女の声だ。この頃では、世話人ももう滅多《めつた》にはやつて来なかつた。かれ等は自分の勝手に托鉢《たくはつ》に出たかれの行為を不快に思つた。「ああいふものに構つてゐては仕方がない。」かうある者は思ひ、ある者は、「余りに勝手だ。何うかしたに違ひない。」と思つた。寺には人はつひぞやつて来なかつた。
「御免なさい。和尚《をしやう》さん、お留守ですか。」
 かれは顔を其処に出した。見たこともない二十三四の若い女がそこに来て立つてゐた。
「何か? 用?」
 女は顔を赧《あから》めたが、抱へて来た包の中から、一枚の綿入を出した。新しくはないが、綺魔に洗ひ、縫ひ畳んだ綿入を……。
「失礼ですけれども、これを和尚さんにさし上げたいと思ひまして……。私が心がけて、この間から洗つたり縫つたりしたものです。何うか、私の些《いさゝ》かばかりの志《こゝろざし》だけを納めて下さいませ。」
 かう言つた女はまた顔を赧《あから》めた。かれは深く心を動かされずには居られなかつた。かれは凝《ぢつ》と女を見詰めた。
「志ばかりで御座いますから、何うか……」
「これは難有《ありがた》いお志だ。」
 かう言つたきりで、かれの眼から涙がにじみ出さうとした。
 しかしかれは何も言はなかつた。黙つて礼拝《らいはい》合掌した。

     十二

「ヤア、また、あの乞食坊主が何かしてらあ……」
 かう言つて人達は其方《そつち》の方へと走つて行つた。それは町の角である。長い町を通つてこれから寒い風の吹く野に出ようとする角である。通りかゝつた荷車や人足や女子供などが一杯に其処に立留つた。
 深い鬚《ひげ》の中に明るく眼をかゞやかし、破れた僧衣《ころも》に古い袈裟《けさ》をかけ、手に数珠《じゆず》を持つたかれの前には、二十八九になる一目見て此処等に大勢ゐる茶屋女だとわかる女が、眼に涙を一杯に溜めて、そして矢張手を合せて立つてゐた。
「坊主、女でもだましたかな!」
 かうした悪声を放つた人達も、そこに来て、その状態を見ては、思はず不思議な思ひに撲《う》たれた。
 女は合掌して涙を流してゐる。そしてその前にゐる一人の乞食坊主――汚い坊主が神か仏でもあるやうに、それに向つて随喜渇
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