倍|立優《たちまさ》つた成績と評判とを持つてゐた。父母の愛も深かつた。
 何うしても誰か悪者か何かに誘拐《いうかい》されたに相違ない。警察でも最初の鑑定は主としてその方面に傾いた。しかし、その管内は平和で、此頃、さうしたわるい者が他から立廻つた跡もない。
「不思議なこともあるものだ。」かう署長も刑事も巡査も皆な首をひねつた。
 一番先に調べにやつた停車場では、昨日から今日にかけて、娘が汽車に乗つて行つたやうな痕跡《こんせき》はないと言つて来た。
 娘は或は村や町の人々の眼に触れるのを顧慮して、わざと別な停車場まで行つて、そこから乗つて上京しはしないかと思つて、念のため、前後二三の停車場をも調べて貰つた。しかし矢張さうした形跡は何処にもなかつた。
 もしこれが誘拐《いうかい》でなしに、自発的だとすれば、何処かの淵川《ふちかは》にでも身を投げやしないか。世間でも何も知らないけれど、その奥に何かこんがらかつた事情があつたのではないか。捜《さか》しあぐんだ後には、警察でも、かう言つて、方針をかへて、あちこちと沼の畔《ほとり》や河の岸を探らせた。
 矢張わからなかつた。
 父母の悲痛の状態は見るに忍びないほどであつた。さうした覚悟の家出なら、何とか書いたものか何かが残つてゐさうなものである。又生きてゐるものなら、途中から何等かの便《たより》がありさうなものである。しかし金も持つて行つた形跡もなければ、予《あらかじ》めさうした予定があつたらしい痕跡も残つてゐない。娘は奥の自分の居間に坐つてゐて、ふと思ひ立つて出かけたらしく、座蒲団も硯《すゞり》も筆もそのまゝになつてゐた。外国の小説らしい本が半ば開けられて、そこにちやんと赤い総《ふさ》のついた枝折《しをり》が挟んであつた。
 その日も暮れた。
 ところが、更に驚くべき報知が町や村を騒がせた。それは娘が長昌院の信者の中に雑つてゐたといふことであつた。他《はた》でそんなに大騒ぎをしてゐるのを少しも知らないやうにして、且《か》つは信仰的エクスタシイが不意に娘の魂を誘つたといふやうにして、かの女は汚い大勢の群の中に雑つて、一心に経を誦《ず》してゐたのである。人々は皆な驚愕《おどろき》の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
 署長や巡査はすべてを捨てて、剣を鳴して寺へと行つた。それと知つて、父親や分家の人達も車を飛
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