な悲しいやうな涙の溢《あふ》れて漲《みなぎ》つて来るのを感じた。上さんは暫《しば》し立尽した。
 信者達の熱心な誦経《ずきやう》の声はあたりに満ちた。取附く島もないやうにして上さんは立つてゐたが、やがて庫裡《くり》の奥から五分刈位に髪の毛を延した鬚《ひげ》の深い僧が此方にやつて来た。それはかれであつた。
 かれはちよつと此方を見た。しかし別にこの不意の訪問に驚くといふやうな風もなしに、黙つてぢつと其処に近寄つて来た。さながらかの女の来るのを今日は待つてゐたと言はぬばかりに――。
 少くとも上さんには無量な感慨が集つて来た。何を言つて好いか、何から話して好いかわからないほど胸が一杯になつた。しかし昔馴染《むかしなじみ》と言ふやうな、又は昔の恋人と言ふやうな単純な気分ではなかつた。凝《ぢつ》として見詰めて立つた彼の前に、かの女の頭はおのづから下つた。
 長い間抱いてゐた苦痛、重荷、罪悪――さういふものをすつかりそこに投出して、かの女は思はず合掌した。
 かれは手を合せながら唯一言かの女に言つた。
「今日からは、仏の道に、まことの道に……」
「難有《ありがた》う御座います。」
 かうかの女は微かに言つた。
 上さんはかれの足を洗ふ資格すら自分にないやうな気がした。路々いろ/\に考へて来たことも、つひに一言も言ひ得なかつた。
 暫くして、本堂の前に行つて端坐したかれは、長い長い間、誦経《ずきやう》の声をやめなかつた。それは皆なかの女の為めに、罪の多いかの女のために……。
 其処に集つた信者達は、それにつれて皆な熱心に声を張上げて誦経した。崇厳《そうごん》な気分があたりに満ちわたつた。
 上さんは遂に信者達と其処に二日滞留して合掌誦経した。かの女も亦《また》他の人達と共に熱心な信者の一人となつた。
 その話――この一条の話は、上さんの口からやがて人々に伝へられた。「ちやんと、私のやつて来るのを知つていらしつた。もう来さうなもの、来さうなものと思つて待つていらしつた。私の罪の為めに誦経して下すつた恩は、恋人の情よりも、親の恩よりも深い。」かう言つて上さんは話した。
 それを聞いた多くの女達は、皆な随喜の涙を流した。

     十七

 その平野の中でも、富豪として、品位ある旧家として知られてゐるS村のK氏の邸は、綺麗に刈込んだ樫《かし》の垣を前に、後に深い杉の森を繞《めぐ》ら
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