しく、仕事をしてゐた金挺《かなてこ》の手を留めて、いきなりその前に行つて、随喜合掌した。
 それを見てゐた弟子や嚊は吃驚《びつくり》してそれを人々に話した。
 鍛冶屋の亭主は、聞く人がある[#「ある」は底本では「あの」]度毎に言つた。
「俺《おら》にもわからない。しかし、俺ア、あのお経を聞いて手を合はせずには居られなくなつた。実際、俺ア、何も知らずに来た。わるいこともわるいと思はずにこれまでやつて来た。女も何人泣かせたかわかりやしねえ。弟子共にも薄情の真似をした。親には殊に不孝をした……。泣いても悔んでも足りねえやうな不孝をした。不思議だ。金挺《かなてこ》を持ちながら、あのお経を聞くと、急にそれが堪らなくなつて、自分で自分を忘れて、そして飛び出して行つた。えらい和尚さまだ。生仏《いきぼとけ》だ。この恩は忘れられない。これからは俺は善人だ。」
 かう言つて涙を流した。
 これに限らず、さうした不思議の話は、その近所の町と村とを中心にして波動のやうにして伝《つたは》つて行つた。ある時はひそかに嫂《あによめ》に通じてゐた小商人《こあきうど》の店にあらはれて、それをして悔い改めさせた。ある時は長い間人知れず自ら咎《とが》めてゐた殺人の罪を持つた男をしてその胸を開かしめた。父親《てゝおや》の子を生んだ娘は泣いてその汚れた袈裟《けさ》に縋《すが》つた。
 その冬から春にかけては、何処に行つてもその噂《うはさ》が繰返された。「そんなことがあるものか。」と言つて否定した人達も、後にはそれを信じない訳に行かなかつた。
 ある時には、その不思議を知りたいと言ふので、その町の唯一の大学生――心理学研究の大学生が、正月の休暇に帰省してゐるのを好い機会《しほ》に、ある人達と共に慈海のゐる寺へと出かけて行つた。
 荒廃した寺のさまが先《ま》づかれを驚かした。山門は半ば倒れ[#「倒れ」は底本では「倒て」]かけてゐた。本堂は本堂で、庇《ひさし》は落ち、屋根は崩れ、草が一杯にそこらに生えてゐた。
 つゞいて大学生を驚かしたのは、畳の真黒になつた中に、ひとりぽつねんとして坐つてゐる僧の姿であつた。しかもそれは普通の僧侶のやうに頭も剃《そ》つて居なければ、僧衣も着てゐなかつた。普通のやうにして慈海は話した。
 大学生は一時間ほど其処にゐた。
 別に話といふほどの話はなかつたが、その態度の片鱗《へんりん》
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