にも、容易に知ることの出来ない心理が深くかくされてあるのをかれは感ぜずには居られなかつた。その僧は新しい科学の話をも深い洞察《どうさつ》と自信とを以てかれに話した。
 大学生は帰つて来てから言つた。「さうですな。すつかり感心させられて了ひました。とても、私達にはあの境《さかひ》はまだわからない。普通の催眠術などと言ふものよりはもつとぐつと奥ですな。」
「矢張《やつぱり》、不思議ですな。」
 かう人々は言つて眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。

     十四

 世間の罪悪が此頃では愈々《いよ/\》深くかれの体に纏《まつは》り着いて来た。
 しかもそれは皆な自己を透《とほ》して、立派な証券を持つてかれに迫つて来た。かれは愈々仏の前に手を合せなければならないことを感じた。
 かれは求めざる処に集り、離るゝところに即《つ》き、捨てたところに拾ひ得る心理を深く考へた。
 かれは朝早く起きて本尊の前に行つて読経した。
 明けの明星の空に寒くかゞやく頃には、かれはいつももう起きてゐた。喜捨された暖かい衣はそこらに沢山《たくさん》にあつたけれど、かれは矢張一枚の衣しか着なかつた。櫃《ひつ》にも米が満ちてゐたけれども、かれは一鉢の飯しか食はなかつた。
 寒い朝は続いた。霜《しも》は本堂の破れた瓦を白くした。時には雪が七寸も八寸も積る時もあつた。食がなくなつて軒に集つて来る雀にかれは米を撒《ま》いてやつた。喜捨の米を、浄《きよ》い心のあらはれである浄《きよ》い米を……。人に食を乞ふ身は、生物《いきもの》に食を与へる身であることをかれは考へた。
 感極《かんきはま》つたやうにしてかれは黙つて合掌した。
 雀は、ちゝと鳴きながら、軒から其処に下りて来て、かれの顔を見るやうにして、又は食を与へて呉れるかれの恩を感ずるやうにして、首をかしげながら、小さな嘴《くちばし》で、雪の中に半ば埋れたやうになつてゐる米粒をついばんだ。中には、縁側まで入つて来るものなどもあつた。
 今までに味ふことの出来なかつたやうな歓喜がかれの胸に漲《みなぎ》り渡つた。

     十五

 垣に梅が咲き、田の畔《くろ》に緑の草が萌《も》える頃には、托鉢《たくはつ》に出るかれの背後《うしろ》にいつも大勢の信者が集つてついて来た。
 驚くべき光景が常にかれの周囲にあつた。鍛冶屋の亭主、青縞屋《
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