思ひに満たされた群集の上に、薄暮の色は蒼《あを》く暗く押寄せて来た。

     十三

 不思議な乞食坊主の話は、時の間にそれからそれへと伝へられて行つた。ある者は否定した。ある者は肯定した。
 否定したものは、「今の世に、そんなことがあつて堪《たま》るものか。それは丁度《ちやうど》その女がさうした苦痛を持つてゐたからだ。自分の影だ。自分の影を見て驚いたに過ぎない。」
と言つて笑つた。
「そんなことを言つて、良民を迷はすものは、捨てて置かれない。第一、人の門に立つて乞食をするさへ邪魔なのに、その家の内部まで見透《みす》かしたやうなことを言ひふらすのはけしからん……。警察で取りしまつて貰はなければならん。」
 かう敦圉《いきま》いて言ふものなどもあつた。慈海の生立《おひたち》を知つてゐるものは、「あの坊主、二十年振りで国に帰つて来たが、その間には何をやつて来たかわかりやしない。風説によると、何処にも行きどころがなくなつて、それであの寺に入り込んだつていふ事だ。油断がなりやしない。現に、ちよつと見てもわかる。薄気味のわるい眼をしてゐるぢやないか。」などと言つた。しかし中にはかれの不断の読経《どきやう》やら、寺に来てからの行状やらから押して、普通の僧侶――其処等にざら[#「ざら」に傍点]にある嚊《かゝあ》を持ち、被布《ひふ》を着、稼穡《かしよく》のことにのみ没頭してゐる僧侶とは違つてゐるのに眼を留めるものなどもあつた。ある大きな青縞商《めくらじましやう》の主人はその一人で、その家の門に慈海の立つた時には、いくらか尊敬の念を以つて、その姿と行動を凝視した。成ほど世間の評判のやうに、その読経の声に深く人の魂を引附けずに置かないやうに深遠|微妙《みめう》の調子を持つてゐるのをかれは見た。
「兎《と》に角《かく》、普通の僧侶とは違つてゐる。」
 かうかれは人々に話した。不思議な乞食坊主の話は、次第に村から町、町から野へとひろがつて行つた。
 ある日、また一場の話が伝《つたは》つた。それは町の外れに住んでゐる鋤《すき》や鎌《かま》や鍬《くは》などをつくる鍛冶屋の店での出来事であつた。鍛冶屋の亭主は巌乗《がんじよう》な五十男で、これまでつひぞ寺にお詣《まゐ》りしたことなどはない男であつたが、その坊主が来て門に立つて読経《どきやう》してゐると、忽《たちま》ち深い感動に心を動かされたら
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