仰《ずゐきかつかう》してゐる。
かれは唯黙つて読経《どきやう》した。
かれは五六日前に、その女の抱へられてゐる小さな料理屋の門《かと》に立つた。それは夕暮で、これから忙しくならうとする頃であつた。奥には、もう客が二組も三組も来てゐた。そこの上《かみ》さんは、面倒だと思つたかのやうに、一銭をその鉄鉢《てつばつ》の中に入れてやつた。しかしかれは容易にその読経《どきやう》と祈念とをやめなかつた。かれの心がこの門に引かれたと同じやうに、かれの読経の声に心も魂も帰依《きえ》せずにはゐられないやうな女が其処に一人ゐたのであつた。それはかの女であつた。男に対する苦痛と罪悪とに日夜|虐《さいな》まれ通しで生きて来たかの女であつた。かの女はその重荷に堪へかねた。
かの女は店から外に出て来て、かれの前に跪《ひざまづ》いて合掌した。
その話を聞いた時には、そこに集つた人達は皆な不思議な思ひに打たれた。
トボ/\と野に向つて行くかれのさびしい姿を人々は見送つた。
「本当かな!」
「本当ですともな……。あの和尚《をしやう》さんは、普通の和尚さんではない。あゝして托鉢《たくはつ》して歩いてゐるけれども、苦しい辛い罪悪がある家の前に行くと、きつと立留つて長くお経を読んでゐる。きつとそれが中《あた》る。そのお経の声がぢつとその人の胸にこたへる。現に、私なんかも、その一人で御座います。私は心中をしました。男が死んで自分が生き残つたのです。その時は別に何とも思ひませんでした。好いことをしたとも思ひませんが、生命《いのち》があつて好かつたと思ひました。しかしそれが何《ど》んなにその後私を苦しめましたか。私は行く先々で、きまつて男から心中を誘はれました、男がそのために生命《いのち》を失つたものは一人ではありません。そしてその度毎に、私はいつも生残つて来るのでした……。あゝ、もうしかし、生きた仏に逢《あ》つて、この苦悩を救はれました」。かう言つて女は手を合せて数珠《じゆず》を繰つた。
「あの和尚さんは仰《おつ》しやつた。一度心中しそこなつたものは永久に心中のしそこなひをするものだ。姉を姦したものは、又必ずその妹を姦するものだとかう仰しやいました。あの和尚さんは私の苦しみを救つて下すつた。仏に向つて手を合せるやうにして下すつた。生みの親の恩よりももつと深い。」かう女は群集に向つて言つた。
不思議な
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