であつたかれが、かうして田舎《ゐなか》の廃寺の中にひとり生活してゐるといふことが不思議に思はれた。広い世間にも、かれ程|有為転変《うゐてんぺん》の生活を送つたものはないであらう。また明るい影と暗い影と互に縺《もつ》れ合つた生活をしたものはないであらう。罪悪と慈善との一緒になつた生活をしたものはないであらう。彼の心は時には一人の孤児の為め、一人の飢ゑた者のために振ひ立つた。また或時は欲求した染着《せんちやく》した心の虜《とりこ》となつて、美しいものすぐれたものに向つてその魂を浪費した。かれは本当なもの真剣なものの探検者であつた。本当のものを求めるためにかれは水火の中に入ることをも辞さなかつた。虎穴に向つて突進して行くことをも辞さなかつた。ふとかれは考へた。「かうした今の生活も矢張その探検者の心ではないか。虎穴に向つて突進して行くものの心ではないか。」
さうだ、それに相違ない。昔は、聖者はあらゆる苦行を行《ぎやう》した。一生を苦行の中《うち》に終つた人達もあつた。婆羅門《ばらもん》の徒の苦行――そこまで考へて行つてかれは思つた。自分のこれまでの生活は、あらゆる苦行ではなかつたか。あらゆる忍苦ではなかつたか。放蕩《はうたう》もまた苦行、残忍無残もまた苦行、デカダンもまた苦行、「恐ろしい群」もまた苦行、歓楽もまた苦行ではなかつたか。美しい女の肌に触れ、美酒にあくがれ、音楽に心を蕩《とろ》かしたのも亦《また》苦行ではなかつたか。
山海の珍味を尽し、美を尽し、善を尽し、出《いづ》るに自動車あり、居《を》るに明眸皓歯《めいぼうかうし》あり、面白い書籍あり、心を蕩《とろ》かす賭博《とばく》あり、飽食し、暖衣し、富貴あり、名誉あり、一の他の不満不平あるなくして、それでも猶《な》ほ魂に満されざる声を聞くのは何の故か。かうしたことも亦苦行の一つであるからではないか。
ふとある光景がかれの眼の前に起つた。それは恐ろしい光景であつた。弱きものの虐《しへた》げられ、滅《ほろぼ》さるゝ光景であつた。数本の足――或は毛深い、或は青白い、或は滑《なめ》らかな数本の足がだらりと空間に下つて見られた。かれは思はず手を合せて、口に経文を唱《とな》へた。
次第に幼い頃の空気がかれの心の周囲に集り且《か》つ醸《かも》されて来るのを覚えた。最早始めに来た時に感じたやうな「孤独」と「寂寥《せきれう》」とを
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