かれは感じなかつた。また華《はな》やかな面白い「世間」に向つて引戻さるゝやうな心をも感じなかつた。
 飢《う》ゑを覚えた時に、かれは始めて立つて、七輪の下を煽《あふ》いだ。また、世話人の持つて来て置いて行つて呉れた四角の小櫃《こびつ》の中の米をさがした。
 夕暮になると、夥《おびたゞ》しい蚊が軒に蚊柱を立てた。室《へや》の中を歩いても、それがバラ/\と顔に当るほどである。かれは思つた。「これも自分と同じ生物だ。飢ゑたがために食を求めてゐるものの声である。でなければ、生殖のために、不可解の生命の連続のために盲目の恋をしてゐるものの声である。生命のために冒険をしてゐるものの声である。『恐ろしい群』の人達のあげた悲鳴と同じ悲鳴を挙げるものの声である。」
 かれは思ひつゞけた。
「しかし、この冒険のためには、盲目の恋のためには、食を求めるためには、生死を問題にしては居られない。従つて、かれ等に取つて、生死はその運不運であり幸不幸であるのは勿論《もちろん》である。しかし、更に一歩を進めて考へて見る。運不運ではあり、幸不幸ではあるけれども、それ以上に生の力が、盲目の生の力が肯定されてゐるではないか。生死を問題にしてはゐられない境《さかひ》があるではないか。扞格《かんかく》した力の上に起つて来る悲劇は、これは何うも致し方がない。」
 かれは苦行といふことについて、三日も四日も考へた。「苦行は僧や婆羅門《ばらもん》の徒の行《ぎやう》するものばかりではない。人間はすべてこれを行してゐるではないか。意識せると、意識せざるとの区別はある。蚊の食を求めるのもまた是《こ》れ行、盲目の恋をするのも亦《また》これ行、生死も亦是れ行ではないか。」
 かうしてゐる中にも、時は経《た》つて行つた。ある夜は凄《すさま》じい風雨がやつて来た。本堂ばかりではない、自分の居間にも雨が盛《さかん》に洩《も》つた。
 かれは裸蝋燭《はだからふそく》に火をつけて、それを持つて立上つた。あまりに凄《すさま》じい音に起されて、その光景を見ようとかれは思つたのである。
 破れた雨戸から雨が礫《つぶて》のやうに降込んで来た。従つて何処も濡《ぬ》れてゐないところはなかつた。廊下に出ようとすると、風が凄じく吹いて来て、手に持つた蝋燭は危《あやふ》くそのために消されようとした。
 かれは袖《そで》でそれを蔽《おほ》つた。
 廊下
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