は長い間|跪《ひざまづ》いて手を合せた。
この紳士は今朝突然この村にやつて来た。そして村長の宅《うち》を訪《たづ》ねた。かれは其処から一里に近い田舎町の旅舎《やどや》に昨夜《ゆうべ》わざ/\やつて来て宿を取つてゐたのであるが、その出した名刺を見た村長は、俄《には》かに言葉を丁寧にして、紳士の綺麗な顔を恐る/\見た。名刺には田舎の村長を驚かすに足る官名が書いてあつた。
紳士は寺のことを聞き、墓を聞き、またその昔の館《やかた》の址《あと》を聞いた。今だに壕《ほり》の跡が依然として残つてゐるといふことを村長から聞いた時には、紳士の顔にはある深い感動の表情が上《のぼ》つた。やがて紳士はその墓と館の址とを残して永久に立去つた昔の城主の遠孫であることを村長に話した。村長は愈々《いよ/\》辞を低うした。
「何も他《ほか》には残つてはゐませんかな。」
「何も……旧家といふのも大抵潰れて了《しま》つたものですから……」
「ふむ……」
かう言つたが、「さうすると、その先祖は小田原に亡《ほろぼ》されて、それから、野州に行つて、そこで今の主人を持つたんですな。何でも、野州で今の藩侯の家来になつたのは、こゝに墓のある人の孫に当つてゐるさうですから……」
「さやうで御座いますか。こゝから、お跡が野州に?」
かう村長は別に感動するやうな風もなしに言つた。
紳士は最初に村の西の隅にある館の址に行つた。濠《ほり》、草や笹に埋められた壕、それもかれには非常になつかしさうに見えた。かれはわざ/\草藪をわけて、その小高いところまで入つて行つた。しかし其処には何もなかつた。
「城ツて言つても、その時分は、館《やかた》なのだから――」
こんなことを独言《ひとりごと》のやうに言つた。で、そこを出て、かれは用水縁《ようすゐべり》の路にその都人士らしい姿を見せつゝ寺の方へとやつて来た。途中では、丁度《ちやうど》ひろい庭で麦を打つてゐる百姓達が連枷《からざを》を留めてじろ/\かれの方を見た。
寺にも一時間ほどゐた。留守居の男が赤く濁つた茶などを勧めた。
かれは又|訊《き》いた。
「寺に、先代の弟子と言ふものもなかつたのですか?」
「大勢あつたのですけれども……。それも先々代のですが……。先住《せんぢゆう》にはありませんけれども……。何うも皆な還俗《げんぞく》したり何かして了ひましてな……。しかし、いづ
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