まゝにして置いた。取巻いた壕《ほり》の跡には、深く篠笹《しのざさ》が繁つて、時には雨後の水が黒く光つて湛《たゝ》へられてゐるのが覗《のぞ》かれた。春はそこから出て野に行く道に、蓮華草《れんげさう》や菫《すみれ》の一面に咲いたところがあつて、村の小娘達はそれを採つては束にして終日長く遊んでゐるのを誰も見懸けた。
梅雨《つゆ》の降頻《ふりしき》る頃には、打渡した水の満ちた田に、菅笠《すげがさ》がいくつとなく並んで、せつせと苗《なへ》を植ゑて行つてゐる百姓達の姿も見えた。かれ等は用水の漲《みなぎ》つて流れる縁を通つて、この昔の館《やかた》の址《あと》の草藪に埋められてある傍を掠《かす》めて、そしていつも揃つて野良の方へと出掛けて行つた。
少くとも、このH村では、半ば野に、半ば丘に凭《よ》つてゐるこのH村では、その城主の館の址と、五百年も前からあつたといふ寺と、その寺に残つてゐる苔蒸《こけむ》した墓と、この三つが、長い「時」の力の中に僅《わづ》かに滅びずに残つているもので、それ以外には何物も昔の跡を語るものはなかつた。寺の大檀越《だいだんをち》で、旧家で、昔は寺の為めに非常に喜捨をしたといふSTといふ家でも、その分家の分家が僅かに小さく残つてゐるばかりで、古い苔蒸した無数の墓の外《ほか》にはその昔の何事をも語らなかつた。唯、雲雀《ひばり》が高く囀《さへづ》つて空に上つた。
今から数年前であつた。ある夏の日の晴れた午後の日影を受けて、此処等にはつひぞ見たことのない新しいパナマ帽を冠つた、絽《ろ》の紋付の羽織にちやんと袴《はかま》を着けたハイカラの若い綺麗な紳士が、銀の環《わ》の光つたステッキをつきながら、村長につれられて夥《おびたゞ》しく荒廃したその無住の寺の山門へと入つて来た。
こんな会話を二人はした。
「えらく荒れてますな!」
「どうも……好い住職がないもんですから……それに、もとの住職が寺の借金を沢山《たくさん》残して行つたもんですから……」
「もう、長くゐないのですか、住職は?」
「八九年になります。」
村長は丁寧な言葉で深く尊敬するやうにして話した。
紳士は庇《ひさし》の落ち、軒の傾き、壁の崩れてゐる本堂の中に下駄のまゝ上つて行つたり、留守居の男の淋しさうに住んでゐる古い庫裡《くり》の方へ行つて見たりした。奥の苔の蒸した五輪形の墓の前に行つた時には、紳士
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