て来る千万の考慮をも捨てよう……」かう思つて、かれは庫裡《くり》の一間から出て来た。
いつもゐるところに婆さんがゐない。道具と言つては唯これ一つしかないと言つても好い長火鉢、その上には鉄瓶《てつびん》がかゝつて、しかも沸《に》え立つてプウ/\白い湯気を立ててゐた。
かれはそれに水を足した。
そしてそこにあつた下駄をつツかけて戸外《おもて》に出た。
広々として美しく日にかゞやいた野がその前に展《ひら》けた。夏のさかりの大地から湧《わ》き上る暑気は、草にも木にも一面に漲《みなぎ》りわたつて、キラ/\とかれの眼と体とに反射して来た。
畠には笠《かさ》をかぶつて百姓が頻《しき》りに草を取つてゐた。
ふと昨夜《ゆうべ》世話人がやつて来ていろ/\に言つた寺の経営の話がかれの頭にのぼつて来た。「兎《と》に角《かく》、昔から由緒《ゆゐしよ》のある寺だから、この儘《まゝ》かうして置くのは残念だ。何うか、貴方《あなた》が来たのを機会に、昔のやうには行かなくとも、本堂も修繕し、庫裡《くり》ももう少し住み好いやうにし、寺としても余り人に馬鹿にされない寺にしたい。……中興の祖には、貴方より他《ほか》になつて下さるものはないんだから。」かう言つて、重立つた世話人は、寺の財産や、無住にして置いた間に出来た金や、乃至《ないし》はその中から先住《せんぢゆう》の借金を埋めた話などをした。かれはそれに対して深く心を留めてはゐなかつた。「段々さういふことにして……まア、さう急がなくつても好う御座んすから。」かうかれは静かに言つた。
かれの足は行くともなく墓地の方へと行つた。それもそこに行かうと言ふ意志がかれを其処に伴《つ》れて行つたのではなかつた。かれは唯ぶら/\と歩いて其方《そつち》へと行つた。
墓地は昔と比べては頗《すこぶ》る明るくなつてゐるのをかれは見た。それも先住がその後《うしろ》の杉森を伐《き》つた為めであつた。女に対する愛欲の結果がかうした形に影響するといふことも、彼には不思議なやうな気がした。つゞいて先住と自分との生活がちよつと比べて考へられ、二人が嘗《かつ》ては此処で同じ飯を食ひ、同じことを考へ、或は同じ寺の娘を恋したかも知れなかつたことがつゞいて頭に上つて来た。偶然――偶然。「本当に、偶然の二字でこれを解釈して了つて好いのであらうか。」
かれの今までの経験は、何も彼《か
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