ステツキを立てゝそれの倒れた方へゆけ」と書いてゐたが、吾々は白山の方へ向つて歩いた。さう書くといよ/\探險らしいが、登山らしい何の用意もなかつたことだし、實は、自分達は湯涌へ流れ落ちてゐる川が、今自分達の歩いている峰の左手は谷にある筈だから、どんなに間違つても川の方へさへ辿りつけば路を迷ふ氣遣はあるまいといふ、用意周到な冒險であつた。
 それがN君は、親讓りの時計についた磁石を取出して方向を見たりして、ひとかどの冒險らしく振舞つたことが、その時は、さほどをかしくも不自然だとも思はなかつた。
 昨夜からひどく降つた雨も、今朝からすつかり上つたけれど、雨の多い山國の初秋のことで、鼠色の雲が空を閉ざし、白い雨雲が國境の方の峰から走つて來ては、足もとをかすめては谷を越えて、向ふの峰へ飛んでゆくのが、冒險家に一入の風情を添へたのだつた。
 一つの峰を越えて次の谷へかゝつた時には、足許がかなり危かつた。雨上りの岩角は滑るし、土の肌の見えないまで落ち積つた枯葉は、ねと/\と靴を没して、歩き辛いこと夥しい。はじめのうちは、珍らしい蕈や、見たこともないやうな草花を寫生したり、採集したりしたが、今はもう、
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