畫をかいてゐることがわかつたからだ。
 日露戰爭がすんで四五年した頃だつたから、外國からも新しい畫本がどし/\舶來するやうになつて、先生の不自由はなかつた。その頃獨逸の本の中に日本の浮世繪のことをかいた本があつた。支那を研究したものも、はじめは珍らしかつたが、だんだん、支那や日本の昔のゑかきの中にも、外國人にまけないエライ――ほんたうのエライ人がゐる事がわかり出した。
 さうして僕の畫の先生は、ますます殖えていつた。
      ・その頃の仲間・
 その頃僕の畫室に集まつて一所にモデルを雇つて勉強してゐた人に、恩地孝四郎、久本信、小島小鳥、田中未知草、萬代恒志の諸氏がゐた。この中で田中と萬代は前後して死んでしまつた。二十代のもしくは三十歳前後の諸君の兄さんか姉さんは覺えておゐでだらうが、「萬代つねし」はその頃の雜誌に、美しいそしてすばらしくデリケートな「さしゑ」をかいてゐた。その頃やはり「さしゑ」をかいてゐて死んだ宮崎與平も、仲間で、よく一しよに寫生に出かけたものだつた。
 その頃は電車の中がいつもがらあきで、寫生するには持つてこいだつた。寫生する畫學生も少なかつたから、誰にも氣づかれ
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