ずに平氣でやつてゐた。淺草公園やその頃の新橋の停車場などは、人間をかくに最も好いスケツチ場になつてゐた。
 姿の好い人の後をつけて、スケツチしながら歩くので、電信柱や人力車と衝突することは度々だつた。淺草へゆくと一日にスケツチ帖を五册位かいたものだ。カルトンを抱へこんで江川の玉乘の二階に、ドガ氣取りで構へ込んで、毎日やつてゐたこともあつた。その頃淺草に木下茂という可愛い少年畫家がゐた。太平洋畫會にゐて、實におもしろい畫をかいたものだつたが、此頃はすつかり日本畫に宗旨變へして未來派じみた畫をかいてゐる。淺草の女を描く事に於ては、木下君に自信もあつたし、みんなも囑望してゐたのだつたが。
 漫畫家の山田實君の兄さんに山田清といふ男がゐた。その頃學校の生徒で、素晴しいカラリストで、すてきな美しい芝居の畫をかく天才だつた。生きてゐたら、ちよつと得がたい人だつたらう。
 どうも「さしゑ」を描く人は夭逝するやうだ。それにはいろいろな理由もあるだらうが、挿畫家はどの畫家よりも神經を多量に疲勞させることも原因であらうし、この頃はまた殊に、ペンでかくので、白い堅い紙へ金屬をごしごし引かくのが神經系にがりが
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