もいけない。此頃では「ゑをかくこと」と餘儀なくかいておく。
しかし實を言へば、私は自分で單に「ゑかき」だとも思つてゐない。「ゑかき」といふ商ばいはどうも好きでない。しかし、畫をかくことは好きだし、世の中で爲る事の中では、やはり一番眞劍で深くなつてゆけるし、この道はどの外の道よりも自分に適してもゐるし、幸福だと思つてはゐる。何かしら自分の技能で生活してゆくことも好いし、狹い人間生活のうはつらでうようよしないですむことも愉快だ。
中學を中途でよして、東京へ出たのは十八の夏だつた。内村鑑三氏と安部磯雄氏の演説をきいて、どうしたものかお金持になつて、天才の貧民教育の學校を建てるつもりで、朝鮮へいつてゐるうち、死んだ島村抱月氏に招かれて再度上京して小説家になるつもりで勉強してゐたが、どうも文字で詩をかくより形や色でかいた方が、私には近道のやうな氣がしだして、いつの間にか繪をかくやうになつてしまつた。
二十一の時だつた。私の下宿の近所に大下藤次郎という畫家が住んでゐた。今の新潮社の前身新聲社から「水彩畫の栞」という當時唯一のハイカラの畫の本をその人が書いたのを讀んでゐたのが縁で、描いた畫をも
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