タルチニイは夢で惡魔の曲を作つたといふが、私の版畫は未完成だ。
南人不夢駝、北人不夢象。といふが必ずしもさうとは言へない。私は曾て、朝鮮を見ない前に京城の夢を見た。後にいつて見ると、その夢の通りであつた。伊太利羅馬の近郊の廢園を夢に見て、スケツチに描いておいたが、いつかそこへいつて、夢に見た風景とおんなしなのに驚くかも知れない。ある事件や、ある風景を見て、おやおやこれはいつか見たぞ、と思ふことによく出會《でくわ》す。あの時もこれとおんなしやうな情態でこんな風なことを爲たり言つたりした、と思ふのだ。夢が現實になつたのか、夢と現實の錯覺なのか。霞ケ浦の牛堀といふ船着場がある。いつかの夏、船の都合でここへ上げられて泊つたことがあつた。夕方、街裏を散歩すると、畑をぬけて丘へ上つてゆく白い道が、どうも、いつか歩いたことがある氣がするのだ。そんな筈はない、はじめての土地だ。しかしこの氣がするといふ實感を飜すどんな理由もない。祖先の經驗したことが潜在意識になつて子孫に傳はるというやうなことや、肉體から遊離した靈がふらふらとこの邊を散歩したなどといふことがあるものだらうか。まあ、さうとでもしなければ、説明がつきにくい。
ひと頃よく見た夢でよく記憶してゐる夢が一つある。私は、その頃洋館の一般の樣式であつた青いペンキ塗りのずぼつとした西洋館に住んでゐるのだつた。それはかなり大きな川に添うた郊外の丘の上にある、「青い家」と呼んだかも知れない不思議な家であつた。入口が一つで、下に應接間と食堂その他があり、階上に畫室と寢室とがある。大きな露臺が畫室に添うてあり、そこで友人と茶を呑んだり仕事をしたりしたものだ。大きな卓子のまはりにはいつも四五人の青年が集まつて、氣持の好い世の中を空想したり議論してゐたものだ。吾々は所詮、モリス程度の社會改造論者であり、社會組織の反逆者であつたのだが、時の官憲から睥まれてゐた。髮の毛を伸放題にしたり、帽子がなかつたと、半襟のお古をボヘミアン・ネキタイにしたり、左右均等でない靴をはいたりしたむさくるしい不思議な一團が、青い家を出て寫生に出かけると電信柱の陰で見張りをしてゐたスパイが、ぎろつと出てきて、四五間あとからついて來るのだ。その頃の世間だから、私達は世間の人達と官憲と四方八方から睥まれて非國民扱ひをされてゐたものだつた。青い家の戸口には一本の祕密の紐が下つてゐて、それを引けば畫室の鈴が鳴る仕掛になつてゐた。その鈴を引く數が同志の間だけに暗號を持つてゐた。
ある夜、私は一人の若い娘と二人きりでその青い家に住んでゐたのだが、鈴がけたたましく鳴つて「青い家が襲はれてゐるから、すぐ遁げよ」といふ信號であつた。
「お前はお家へお歸り、二人一所に遁げることは出來ないから」私は娘にさう言ふ。
「いゝえ、あたしはあなたと別れるのは死んでもいやです。それに世のために捧げた身體です。どうなつても構ひません」
「二つの神に仕へることは出來ない。世の中のためならどこにゐても出來る。さ、もう時がない」
夜はもうほのぼのと白みかけて、刷ガラスが紫色に見える。私は先づ、女を遁すために露臺へ通じた扉《ドア》を開けた。ひやりと朝の氣が胸へ流れこんだ。川だけが異常に明るい。ふと川下へ視線をやると五六町下の橋のあたりに、二十人ばかりの人間が急いでこちらへやつて來る姿勢をしてゐる。それがの川淺瀬で、ほのぼのと銀色をしてゐる川面に黒い影が動いてゐるのだ。
「おい、來たよ。白鳥橋までやつて来た」
私はまだ川下を瞶めたままさう叫んだ。
「君ピストルを持つてゐるかい」いつの間にか親友Aが後ろから聲をかける。
「そんなものはいらない、俺は人をやつつける氣がないから自分でも身を護らうとは思つてゐない。人間が人間をむやみに殺しはしないよ」
「でも村正だけは持つてゆきませうよ。まさかの時にはいつでも死ねるやうに」娘はさう言つて、しきりにトランクの底を探してゐる。娘は青い洋服をきてゐる、襟足のところに青いリボンで束ねた髪が搖れてゐる。いぢらしい後姿だ。こんな場面《シーン》がツルゲニエイフの「處女地」だつたか「貴族の家」だつたかにあつた、な。瞬間そんな考がちらと頭の中を過ぎる。
この夢の中では、川下からやつてくる人間が動いてゐる姿勢でありながらちつとも近づいて來ないのだ。それが何だか非常に不氣味であつたやうにおもふ。
その頃私は江戸川添の東五軒町の青いペンキ塗りの寫眞屋の跡を借りて住んでゐた。恰度前代未聞の事件のあつた年で、平民新聞へ思想的な繪をよせてゐたために、私でさへブラツク・リスト中の人物でよくスパイにつけられたものだつた。夢に出て來る「青い家」は、たしか東五軒町の家らしい。その家は恐らく今もあるだらう。夢の中の橋は、大曲の白鳥橋だと思はれる。
その頃は、
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