それから私達は、エンミイに扮した孔雀と、夕暮の清水を見に行つた。清水坂を上りながらふと聲に出した「紙治」の文句をきゝつけて
「この人はこの頃淨瑠璃をお稽古してゐるんです」と言ふ。
「ま、さう。聞かせて頂戴な」
「嘘言だよ」
もう足かけ四年前になる、おときさんが僕の家に來ておときさんの絃で金公が「紙治」を語つたのは――。
あの晩は面白い晩だつた。その頃まだそんなにポピユラアにならなかつたカチユーシヤの譜を作つたY君がSとかいふ聲樂家をつれて來て歌つたことも思ひ出される。
私達が清水の舞臺へ上つた頃は、もうすつかり日が落ちて、京の街々は夕靄の中に沈んで、大路小路の街燈が遠く近く明滅してゐるのでした。
「まあ好いわねえ」
「あすこは何處?」
「あすこはねえ」
「えゝ」
「知らない」
「まあ!」
名も知らぬ小川や、うす汚い裏小路に、人知らぬ愛情を持つてゐる私は、全く京都名所地理に不案内な案内者でした。
音羽の瀧を上つた所で、私達は、四十ばかりの女につれられた若い娘を見ました。その娘は石を拾つては石の塔へその小石を投げてゐました。なぜさうするのかを尋ねたら「願ひが叶ふ」のだと年とつた女が娘に代つて答へてくれました。私たちも石を拾つて投げました。私のはうまく載かつたけれど孔雀君は駄目でした。「私は載らなくても好いのよ」と孔雀は言ひました。そのわけは私にはわかつてゐるけれどこゝには言ひますまい。私に關したことではないのだから。
おときさん。もう筆を擱きませう。おときさんの絃で私が「紙治」を語る時がいつかあるでせうか。お母樣にもよろしく。さいなら。
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西京雜信
山の街は秋の來ることが早い。高臺寺の馬場の並木の櫻の緑が褪せ、六波羅畑の玉蜀黍の黒い髯を涼風が渡るのも侘しい。
後の祇園會がすむと、この街ではもうすぐに八月盆の支度です。昔ながらの麻のじんべいを着て、仕切袋を肩に柿色の日傘をさして往く男も、表に赤く定紋を入れ裏には屋方と藝名とを書いた澁團扇を旦那筋へ配つて歩く仲居衆の帷衣姿も、盆節季にふさはしい風景の一つで「あの頃は」と誰もがよく言ふことだが、河原の涼みがあつた頃は、「祐信畫がく」ものゝ本で見ても四條河原の夕涼は、世がよかつたやうに思はれる。昔は鎗が迎ひに出る、今は時間極めの自動車乘らぬが損なやうに、一山何文、ぎつしりつめて、老少男女を吹きわけて四條橋を渡るすさまじさ。それにしても世が世なれば、四條橋の下には、一臺十五錢と言ふ安い床が出來て、なんのことはない「夜の宿」の背景のやうな所なれど、河原の夕涼の面影を殘した唯一のもの、風は叡山おろし、水は加茂川、淺瀬をかちわたるよきたはれめもありといふ。
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秋の夜や加茂の露臺にしよんぼりとうつむける子にこほろぎの鳴く
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○
秋が立つといふのに、日のうちはさすがに日本一の暑さ、東京がいつでも京都よりも十度から涼しいのはすこしくやしい。こんな夕方には銀座を歩きながら資生堂のソーダ水でも飮みたいがそれよりも播磨屋が見たい。この頃に、魚がしの人から播磨屋の舞臺姿に添へて、すばらしくいきな下駄を贈つて貰つたが、好い折がなくてまだ履かないでゐる。南座へ播磨屋でも來たらはくことにして樂しんでゐる。
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金と青やなぎ花火のふりかゝる兩國の夜をきみと歩みし
堀留の藏の二階の窓の灯の青くわびしき夜もありぬべし
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○
ある日。京極に三馬がかゝつたときいたので、S君とおしのさんと三人夕方から出かけた。
おしのさんは、ゑり清のシヨウヰンドをのぞいてゐる。そこには柳や薄の縫模樣のある襟が掛つてゐた。私たちは歩いた。私たちは、見覺えのある圖按の中形をきてあるく二人の女を見た。それは私が曾てもの好きで染めたものであつた。三人は、立どまつて不思議な心持で眺めた。
「たいへん不躾でございますが」とおしのさんがその女の人に聞いた。
「あなたは東京から來てお居でぢやないんでせうか、つひお召物がなつかしくておたづねしましたの」
笑つて答へず。
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そのかみの少女見むとて街をゆく我ならなくに淋しきものを
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○
祇園會の神興《みこし》が御旅所に置かれてゐる間は、路へ向いた御旅所の軒にぎつしりと、高張提灯が掛けられる。そこには、有名な席亭や商店の名が書いてある。東京ならさしづめ魚がし、柳ばし、と書いてある所だ。その前を電車が通る時、乘客が窓から首を出して合掌するのも京都でなくては見られぬ。かうして神輿が御旅所にある一週間は、參詣人が引きもきらない、この一週間に無言詣でをしたものは、どんな願の筋でも叶へられると
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