たいと思ひました。かう考へるのは、必ずしも徳子を侮辱した事ではありません。私は考へるのです。小屋や劇團の柄《がら》から言つても、第一流のものが必ずしも好きにはなれません。二流三流或は時代から全くかけはなれたものゝ中に――文學でも美術でもさうです、傍流の中に我々の生活に最も近い、親しみの深い、しみ/″\と身も魂も打込めて流れるものを感ずることのあるのは、誰もが曾て經驗したことだと思ひます。その心持で、千鳥の聲と京阪電車の騷音を併せ呑む有名な鴨川よりも、智恩院の御門前から繩手を經て大和大路の方へ靜かに流れてゆく、白河のせゝらぎの方を私はどんなに愛すでせう。
Sさん。
私はこの意味で、あのおどけた壬生狂言から深い人間の遺傳や性の悲哀を知り、堀川や西陣の場末の安い席亭にかゝる「大津ぶし」に人生の哀音をきいたことを忘れません。
それは芝居ばかりではありません。江戸でいふ「場ちげえ」ほどいやみなものはありません。
Sさん。
こんな風に考へて、歌舞伎座へ徳子を見に出かけた私は全く失望してしまひました。こんなことをいふと所謂劇通から笑はれるかも知れませんが、私は徳子を見たのはこれがはじめで恐らくこれが終りでせう。
Sさん。
京都は夏のゆくことが早う厶います。夕方になると祇園囃の笛の音が、四條の方から聞えて來ます。やがて晝間から戸をおろして店先きへ屏風をならべ、軒下で「じんべい」をきた子供達がギヤマンで作つたペコペンを鳴らし、大僧小僧は屏風のまへで將棋をさし、雪洞のかげでは中京のいとはんが打水した庭先きで團扇の風をやる景色を見るのも、遠くはないでせう。
今日から文樂一座が南座へかゝるさうだし、盆興行には、扇雀一座のぼんち芝居がかゝるさうだからいづれまた改めて書き送ります。
○
おときさん。
君にも隨分暫く逢ひませんね。君の兄さんが飛行機から落ちてなくなつた時、私は旅にゐて新聞の記事でその事をよんだ。私でさへずしんと高い所から落されたやうな氣がした。人傳にも私を飛行機へ乘せてやると言つてゐたし、私も乘つて見たいと思つてゐたことがふいになつてしまつた。身勝手なことだがさう思つた。現在妹のおときさんの身にすれば、あんな死方をした兄をどんなに悲しんでおあげだつたかと、すぐにも手紙を書きたかつたけれど、つひのび/\に今日になつてしまつたのです。それが急に思ひ立つたやうにこの手紙を書く氣になつたのはかうです。先月の二十五日からこちらの南座でもと藝術座にゐた若い役者たちがした芝居が、亡くなつた兄さんの事を書いた「飛行曲」といふ芝居だつたからです。むろんそれは澤田中尉のことを仕組んだのです。故中尉の心事はどうあつたか、當時軍隊の事情はどうあつたか知るよしもないが、あの芝居にあらはれてゐる事件を、私は低級な觀客の一人として涙ながらに見たことをおときさんに知らせれば好いのです。
澤田の扮した澤田中尉が佛國留學を命ぜられて横濱を出発する埠頭待合所の場で幕があく。筋書のかはりに繪本の中に書いてある梗概をこゝへ書きぬかう。
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我飛行界新進の花形として多大の囑望を集めた天野中尉はある重大任務を帶びてフランスへ派遣を命ぜられたが半途にして歸國し歸國後打つて變つた樣に酒色の巷に耽溺し世間をして驚きと失望に陷らしめた。あまり激變、轉化。昨日の淵は今日の瀬とかはる浮世の習とは言へそれにはまた纒綿とした色々の祕密が含まれて夜の夢さへのどかならず、しかも一朝夢さめて怱如飛行機上の人となり我國未曾有の妙技を發揮し數萬の観衆の手に汗を握らせたが爆然墜落して可惜二十有餘の若木の花を散らせてしまつた。有意か無意か嬌艶牡丹のごとき藝妓小富、崇高百合の如きフランスの少女エンミイ、清楚バラの如き吉本將軍令孃美彌子によつてすべての祕密は物語られ訴へられ見る人悉く泣かざるなし。
[#ここで字下げ終わり]
と書いてある。
天野飛行中尉と相許してゐる將軍吉本の愛孃美彌子は、人知れず中尉を横濱の埠頭に送つて、海の方を向いて立つたまゝの幕切れは繪のやうでした。フランスの少女エンミイが天野中尉の友情に感じ、身が獨探の嫌疑を受け中尉に累を及ぼすことを悔いて鐡道自殺をしたという報を聞く中尉の思ひ入れで「なんだ酒だ、酒だ」という幕切れの澤田の藝は高田と高島屋とを交ぜて、それにこの人獨特の東京語とも地方語ともつかない一種の訛りのある言葉が、マンネリズムと感じない程度に話されてゐたのは、井上のあの京都のアクセントで話す東京語と好い對をなして面白いと思ひました。
芝居の役々に就いての批評や筋の運びを、おときさんに話してもきつとつまらないからもう止めよう。故中尉のために多くの觀客が事實として實感的な涙をこぼしたことを、おときさんにお知せすれば好いのです。
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