にゐた頃のことなんですよ、今もまざまざと憶えてゐますが……。」
 この時ふと、戸外《そと》で犬の吠える声と、門を叩く音が聞えた。ヒーヴリャは急いで駈けだして行つたが、すぐに真蒼《まつさを》な顔で引つ返して来た。
「まあ、アファナーシイ・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、大変なことになりましたよ。おほぜいの人が門を叩いてゐますの、それに確か、この家の教父《おやぢ》の声もするやうなんですの……。」
 とたんに祭司の忰は肉入団子《ワレーニキ》を咽喉《のど》につまらせてしまつた……。彼の両の眼は、たつたいま幽霊のお見舞を受けたといはんばかりに、かつと剥きだしになつた。
「はやく、此処へあがつて下さい!」狼狽《うろた》へたヒーヴリャは、天井のすぐ下のところに二本の横梁《よこぎ》で支へられて、そのうへにいろんながらくた道具がいつぱい載せてある棚板を指さしながら叫んだ。
 咄嗟の危急がわれらの主人公に勇気を与へた。彼ははつと我れにかへると同時にペチカの寝棚《レヂャンカ》へ飛びあがり、そこから用心しいしい棚板の上へ攀ぢのぼつた。一方ヒーヴリャは、なほも烈しく、やつきになつて扉《と》を
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