をうけて言つた。「屹度、おいらをみんなが笑はあな。」
「さあさあ、おいでなさいつたら! あんなことはなくたつて、どうせお前さんは笑はれものなのさ!」
「だつて、おめえ、おいらがまだ顔も洗つてゐねえことは分つてゐべえ。」さういひながらもチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークは、欠びをしたり、背中をボリボリ掻いたりして、さうしてゐる間だけでも怠ける時間を引きのばさうとするのであつた。
「おやおや、とんでもない時に、清潔《きれい》ずきな気まぐれを起したもんだよ! つひぞお前さんが顔なんか洗つたためしがありますかね? そら、手拭をあげますよ、これでその御面相を撫でまはしておけばいいでしよ。」
かう言つて彼女は何か巻きかためたものを手に取つたが――ぎよつとして、それから手を振りはなした。それは※[#始め二重括弧、1−2−54]赤い長上衣《スヰートカ》の袖口※[#終わり二重括弧、1−2−55]だつたのだ!
「さつさと出かけて行つて、商売をしていらつしやいつたらさ!」と、自分の亭主が怖ろしさのあまり腰を抜かして、歯をガタガタ鳴らしてゐるのを見ると、彼女はやつと気を取りなほして言つた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]もう商売《あきなひ》もあがつたりだんべえ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]かうひとりごとを言ひながら、彼は牝馬の手綱をほどいて広場へ曳きだした。※[#始め二重括弧、1−2−54]ほんに、さういへば、この忌々しい定期市《ヤールマルカ》へ出かける時だつて、何だか牛の死骸でも背負はされたやうな重つ苦しい気持がしただて。それに去勢牛《きんぬき》どもめが二度ばかり家の方へ後もどりをしかけやがつた。それから、どうも今になつて考げえて見ると、おいらは月曜日に家を出たやうだぞ。なるほど、それがそもそもよくなかつただ!……忌々しい、性懲りもねえ悪魔の野郎めが、片つぽうくれえ袖口がなくつたつてよかりさうなもんだに、しやうもねえ、なんの罪科《つみとが》もない人間を騒がせやあがるだ。仮りにおいらがその悪魔だとしたら――あつ、鶴亀々々!――そんな碌でもない襤褸つきれなんぞ探しに、よる夜なかうろつきまはるなんて馬鹿な真似をするかしらんて?※[#終わり二重括弧、1−2−55]
この時、われらのチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークの推理の糸は突然、ふとい頓狂な声のために断ちきられた。彼の眼の前には背の高いジプシイが突つ立つてゐた。
「いつたい何を売りなさるだね、お前《めえ》さんは?」
売り手は口をつぐんだまま、相手を、足の爪先から頭の天辺まで、じろりと眺めただけで、歩みを止めようともせず、手綱をしつかり手ばなさないやうにしながら、落ちつきはらつた顔つきで、かう答へたものだ。
「おいらが何を売るだか、自分の眼で見たらよかんべえ!」
「革紐を売りなさるだかね?」と、ジプシイは、チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークの握つてゐる手綱を見ながら訊ねた。
「さうさな、牝馬が革紐に似とるやうなら革紐としておくべえか。」
「それでも、をかしいやね、お前《めえ》さん、それにやあ、どうやら麦藁ばつかり食はせなすつたと見えるだね?」
「麦藁ばつかり食はせたと?」
茲でチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークは手飼ひの牝馬を突きつけて、この恥知らずな誹謗者の鼻をあかせてくれようものと、手綱をぐつと曳かうとしたが、しかし意外にも手応へがなくて、彼の手ははずみを喰つて頤へぶつかつた。見れば、手にあるのは断ち切られた手綱だけで、しかもその手綱には――おお怖ろしや、彼の髪の毛は一時に逆立つた!――※[#始め二重括弧、1−2−54]赤い長上衣《スヰートカ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]の袖口のきれつぱしが結びつけてあるではないか!……ぺつと唾を吐いて、急いで十字を切ると共に、両手を泳ぐやうに振りながら、その思ひもかけぬ土産物から逃れようとして、彼は一目散に駈け出したが、その速いこと速いこと、血気の若者そこ退けといつた歩調《あしなみ》で忽ち群集のあひだへ姿を消してしまつた。
十一
[#ここから15字下げ]
わが麦のことで他人に打たれる。
[#ここから27字下げ]
――諺――
[#ここで字下げ終わり]
「とつ捉まへろ! そいつをとつ捉まへろ!」と数人の若者が狭い町はづれで呶鳴つた。そして気がつくと、チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークは不意に頑丈な手で取り押へられてゐた。
「こいつを縛りあげるんだ! てつきりこいつめが、堅気な人間の牝馬を盗みやあがつたんだよ。」
「とんでもねえ! なんだつておいらを縛るだね?」
「あべこべにこいつの方から訊いてやがらあ! それぢやあ、なんだつて手前は、この定期市《ヤールマル
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