らになんの関係があるだ?」傍に寝てゐたジプシイが、伸びをしながら呟やいた。「よしんば、洗ひざらひ身うちの者の名を呼んだにしてからがさ!」
「だけんど、なんだか咽喉を緊めつけられるやうな声だつたでねえか!」
「人が寝言に何をいふか知れたもんでねえつてことよ!」
「それあともかく、ちよつと見て来るだけでも見て来てやらにやあ。おめえ一つ火を燧《う》つてくんなよ!」
片方のジプシイはぶつくさ言ひながら立ちあがつて、二度ばかり稲妻のやうな火花を浴びると、口をとんがらして火口《ほくち》を吹いてゐたが、やがてカガニェーツ――それは陶器のかけらに羊の脂をたたへたもので、小露西亜では普通一般の燈火である――を手にして、道を照らしながら歩き出した。
「ちよつと待つた! ここになんだかうづくまつてるだよ。燈火《あかり》をこつちい見せろよ!」
この時、また幾人かの連中が彼等に加はつた。
「何がうづくまつてるだよ、ウラース?」
「なんでも人間が二人らしいだが、一人が上に乗つかつて、一人が下になつてるだ。はあてな、どつちが悪魔だか、見当がつかねえだよ!」
「そいで、上に乗つてるなあ、なんだい?」
「女《ばば》あだ!」
「そいぢやあ、そいつがてつきり悪魔だんべや!」
どつと一時に哄笑が往還に轟ろきわたつた。
「女《ばば》あが人の上に乗つかつてるからにやあ、この女《ばば》あめ、てつきり人を乗りまはす術《て》を知つてるにちげえねえだよ!」と、輪になつてゐた群衆の中の一人が言つた。
「おい、みんな見ろやい!」と、別の一人が甕の破片《われ》を手に取りあげながら言つた。その甕の残りの半分だけがチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークの頭に被さつてゐるのだつた。「なんちふ帽子《しやつぽ》をこの大将はかぶつてやあがるんだい!」
騒ぎの音と笑ひ声が大きくなつたため、それまで気を失つてゐたソローピイとその女房は息を吹き返したが、さつきの驚愕からまだ醒めきらぬ二人は、長いあひだ、きよとんとした眼でおどおどと、浅黒いジプシイたちの顔を見つめてゐた。ほの暗く、顫へながら燃える灯火《あかり》に照らし出されたジプシイたちの顔は、夜ふけの闇のなかに、さながら陰惨な地底の水蒸気につつまれた奇怪な魑魅魍魎のつどひかとも思はれるのであつた。
十
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桑原々々!
悪魔のそそのかしだ。
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――小露西亜喜劇より――
[#ここで字下げ終わり]
すがすがしい朝風が目覚めたばかりのソロチンツイの上を吹きわたつた。どの煙突からも煙の渦が日の出を迎へにたちのぼつた。市場はがやがやとざわめき出した。羊や馬が嘶きはじめ、鵞鳥や女商人の喚き声が再び市場ぢゆうにひろがつた――そして不気味な夜明け前にあんなに人々を怯えあがらせた、くだんの※[#始め二重括弧、1−2−54]赤い長上衣《スヰートカ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]の怖ろしい取沙汰も黎明《しののめ》の光りと共に消え失せた。
欠びをしたり、伸びをしたりしながら、チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークは教父の家の藁葺の納屋で、去勢牛だの麦粉や小麦の袋のあひだにはさまつて、うつらうつらと夢路をたどつてゐた。が、その快い夢見心地から目醒めようなどとは、てんで思ひもかけぬもののやうであつた。ところが不意に、よく耳馴れて、あたかも彼が密かに懶惰に耽る自分の家の楽しい煖炉棚《レジャンカ》か、それともわが家の敷居からものの十歩《とあし》とは離れてゐない、遠縁の者の開いてゐる居酒屋とおなじぐらゐ、彼に馴染の声が耳にはいつた。
「いい加減にお起きよ、お前さん、お起きつたらさ!」と、その耳もとで嗄がれ声を張りあげながら、優しい奥方が力いつぱい、彼の手をひつぱつた。
チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークは返辞をする代りに頬ぺたを膨らまして、両手で太鼓を打つ真似ごとをおつぱじめた。
「きちがひ!」と叫んで、女房は、あやふく自分の顔をひつぱたきさうな亭主の手から身を退いた。
チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークは起きあがると、ちよつと眼をこすつて、あたりを見まはした。
「なあ、おつかあ、正真正銘、嘘いつはりのねえ話だが、おめえのその御面相が太鼓に見えてさ、おいらがその太鼓で朝の時刻《とき》を打たにやあなんねえことになつてよ、そうら、あの教父の話した、ぺてん師を豚面どもが何したとおんなじやうに、その……。」
「もうたくさんだよ、そんな阿呆ぐちを叩くのはよしとくれ! さあさあ、早く牝馬を売りに行くんだよ。ほんとに、いい笑はれもんだよ、定期市《ヤールマルカ》へ出かけて来て、苧麻ひと握りよう売らないなんて……。」
「だつてさ、おつかあ!」と、ソローピイがすぐにその口尻
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