つぱい灯の点つた彼得堡《ペテルブルグ》が現はれた。(ちやうどその時、何かの機会で万光飾《イルミネーション》が施こされてゐたのだ。)関門を通りすぎると同時に、悪魔は馬の姿にかたちを変へたので、鍛冶屋は市《まち》の真中を駿馬に跨がつて駈けてゐる自分を見出した。
 いやどうも! その喧々囂々たる賑はひと、きらびやかさといつたら! 両側には四階建の大廈高楼がによきによきと聳え立ち、馬蹄の音や車輪の響きが霹靂のやうに轟ろきわたつて四方から反響《こだま》となつて跳ね返つて来る。建物は恰かも地中から生え出て一歩は一歩と高まつてゆくかと思はれ、橋はどよめき、馬車は飛び、辻馬車屋《イズウォスチック》や馭者は喚きたて、積雪は八方から飛んで来る無数の橇の下でシューシューと鳴り、行人は油燈で照明を施こした家々の下を押しあひへしあひして、その頭が煙突や屋根にまでとどくやうな厖大な陰影《かげ》が壁面にゆらゆらと映つてゐる。
 すつかり度胆をぬかれて、鍛冶屋はキョロキョロと八方を見まはした。彼にはあらゆる家々がその数限りない灯の眼《まなこ》でカッと自分を睨みつけてゐるやうに思はれた。羅紗表の毛皮外套《シューパ》を著
前へ 次へ
全120ページ中88ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平井 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング