あたしの顔を見に戻つて来るわ。あたしはどこまでも強情者よ。彼《あのひと》にいやいや接吻させるやうに見せかけなくつちやいけないわ。さうするとよけい彼《あのひと》は有頂天になるだらうから!※[#終わり二重括弧、1−2−55]そしてこの気まぐれな美女は、もう自分の友達とふざけ散らしてゐた。
「みんなちよつとお待ちよ。」と、娘たちの一人が言つた。「鍛冶屋のワクーラさんが袋を忘れて行つたわよ。御覧よ、まあ恐ろしく大きな袋だこと! あのひとの流しはあたし達みたいぢやないわね。この中には屹度、両方とも仔羊の四つ割が一つづつは入つてると思ふわ。腸詰や麺麭だつたら勘定も出来ないくらゐよ。豪勢ね! 祭りの間ぢゆう鱈腹食べられるわ。」
「これ、鍛冶屋の袋?」と、オクサーナが口をはさんだ。「あたしの家へでも曳きずつて行つて何が詰め込んであるのか、しらべて見ようぢやないの。」
 一同はキャツキャツと笑ひながら、その提案に賛成した。
「だつて、あたし達にはとても持ち上げられやしなくつてよ!」一同は袋を動かさうとして一生懸命になりながら、急にさう叫び出した。
「ちよつとお待ちなさいよ。」と、オクサーナが言つた。「ひとっ走《ぱし》り家へ行つて、橇を取つて来て、橇に積んで運びませうよ。」
 そこで一同は橇を取りに駈け出して行つた。
 捕虜たちには袋の中にちぢこまつてゐるのがひどく退屈になつた。尤も補祭は密かに指でかなり大きな穴を開けたので、もう少し人気《ひとけ》さへなかつたなら、或は機会《をり》を見て這ひ出してゐたかも知れないが、人前で袋の中から這ひ出したりしては、いい笑ひものになるから……と考へて彼は思ひとまつた。で彼は、チューブの不躾けな長靴の下で、じつと息を殺しながら、時の来るのを待つことに覚悟をきめた。チューブはまたチューブで、自分の足の下に、何か恐ろしく腰かけてゐるのにぎこちないもののあることに気がついて、これまた少なからず、自由の身になることを望んでゐた。ところが今、自分の娘の下《くだ》した決議を耳にすると、すつかり安心してしまつて、どうせ自分の家までは少くとも百歩なり、二百歩なり歩かねばならないのだからと考へて、袋から這ひ出すことを思ひとまつた。いま這ひ出したりすれば、みなりは直さねばならず、裘衣《コジューフ》の釦を掛けたり、帯を締め直したり――いやはや、どれだけ面倒な仕事があることだ
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