らしい獲物が見す見す自分の手からすりぬけてゆくのを、手を拱いて眺めてゐることが出来なかつた。鍛冶屋が袋に掛けてゐた手をちよつと緩めた隙に、悪魔はすばやく外へ飛び出して、鍛冶屋の頸つ玉へぴよいと馬乗りに跨がつた。
 鍛冶屋はぞつと寒けを覚えた。吃驚仰天して、真蒼になつた彼は、なすべき術《すべ》も知らなかつた。そこで彼はすんでのことに十字を切らうとした……。すると悪魔が俯向いて、犬と同じやうな鼻面をワクーラの右の耳もとへ寄せて、※[#始め二重括弧、1−2−54]私ですよ、あなたの親友《ともだち》ですよ。私は友達のためならばなんでもいたします! お金が御入用ならお望みだけ差しあげます。※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう言つてから今度は左の耳もとでヒクヒクと鳴いた。それからまた、右の耳へ口を寄せて、※[#始め二重括弧、1−2−54]オクサーナは今夜にもあなたのものになりますよ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、囁やいた。そこで鍛冶屋は立ちどまつて考へ込んだ。
「よし。」と、やがて彼が言つた。「さういふ約束なら貴様のものになつて呉れよう!」
 悪魔は手を拍つて、喜びのあまり鍛冶屋の頸の上でこをどりした。※[#始め二重括弧、1−2−54]今こそ鍛冶屋め、おれの手の中へ落ちやがつたぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼は心に思つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]今こそ、兄弟、手前がおいらに負はせをつたあの絵そらごとに対して復讐《しかへし》をしてやるのだ! ほんとに、この村ぢゆうで一番の信心者が、たうとうおいらの手に落ちたと知つたら、仲間の奴らが何といふだらうな?※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 茲で悪魔は、尻尾のある同族どもに地獄で鼻をあかせてやつたり、彼等の仲間うちでも一番の策士として立てられてゐる跛《びつこ》の悪魔がぢだんだ踏むさまを想像しながら、ぞくぞくして北叟笑んだものだ。
「さて、ワクーラさん!」と、逃げ出されやしないかと懸念して、まだ頸から降りようともしないで、悪魔はヒクヒク声で囁やいた。「御承知の通り、何事にも契約書といふものが要りますねえ。」
「覚悟の前だ!」と、鍛冶屋が答へた。「手前たちの仲間では、血判をするつていふぢやないか。待て待て、いま衣嚢《かくし》から釘を出すからな。」
 さういつて彼は、こつそり片手をうしろへ迴すなり――む
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