。けれども青年のいるところからは煙突は見えなかった。
 ――でも、ちっとも煙が出ないんですもの。赤い煙突はなぜ煙を吐かないのでしょう?……」
 ――さあ、なぜでしょうかね……」
 青年は曖昧な風に笑った。そして青年は彼女の振分髪の先で、夕風に大きな花びらのように揺いでいる二つの水色をしたリボンを、恰も本当の花を見るような眼ざしでもって見入った。

 それから間もなく彼女はその青年と十年も前から知り合いであったのとちっとも変らない位親しくなった。青年は彼女の体のために運動が必要だと云ってはお天気のいい日ならば必ず彼女を散歩に誘った。彼女の両親もそれを気にかけはしなかった。むしろ殆ど満足な遊び友達も得られない程病弱な一人娘をそんなにも可愛がってくれるのを喜んだ。(なに、安心だよ。何しろ未だほんのねんねえ[#「ねんねえ」に傍点]なんだからな――)と彼女の父親は母親にそう云った。病身な彼女は全く体も心もたしかに二三年は幼かった。彼女は青年の手につかまりながら往来を歩いた。
 彼等は散歩と云うと大抵町|端《はず》れの月見草が一っぱい生えている丘へ行った。「月見ケ丘」と町の人は呼んでいた。秋になって月を見るのにもいい丘であったから。……その丘からは港の瑠璃色の海や、船着場の黄色い旗や、また彼女の家や青年の邸も悉く手に取るように一眸《いちぼう》の中におさめられた。
 青年は何よりも歌を唄うことが得意だったと見えて、丘のきりぎしに立つといつでも唄った。彼女はおとなしく歌を聞きながら町の方をじっとながめていた。そして若しも青年の歌が悲しいメロディを持っている時なぞには、忽ち彼女の大きな眼に泪が溢れて来た。青年はそれに気がつくとびっくりして歌を止めてたずねた。
 ――どうしたの?……家へ帰り度くなったの?」
 ――いいえ。……でも、なぜあなたのお家の赤い煙突からは煙が出ないのでしょうね。」
 ――どうしてそんな事ばかり云っているの。……ヘんなお嬢さんだなあ。」
 ――あの赤いのは、それでも何だか、あたしみたいな気がして可哀相なんですもの。……ねえ、そう見えるでしょう。……両側の大きいのはお父さまとお母さまよ。……」
 青年は自分の邸の屋根を遙かに眺めて当惑した。

 冬が来て、毎日のように雪が降り続いた。彼女は今度は肺炎に罹った。今度こそ助からないだろうと人々は思った。隣の邸の青年は昼
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