。懐中には数百円入りの紙入れと唐草の浮彫をほどこせし古風なる金側懐中時計を所持したるをみれば盗賊の仕業にてはあるまじく多分深き遺恨ある者の所為なるべし……)
 上海ではあまり珍しくもない事件なので、極めて簡単にしか出ていませんでしたが、それでもその殺された若い男が確かに、郁少年に違いないと推断させるには充分でした。あわれな郁少年! 道理で、あれ程どんな事があろうとも船までは見送りに来ると云っていた彼の姿は見えずにしまったのだ……(清水の眼には泪がいっぱいに溢れていた)
 長崎に上陸するとすぐ僕は、例の象牙の牌を三千円で、ずいぶん廉いとは思ったが、売り払ってしまいました――郁少年の無慙な死に弥が上にも憂欝になっていた僕は、殆ど毎日終日|船室《ケビン》の中に引きこもっていたのですが、その間に僕は幾度となく密かにその牌を取り出しては眺め入りました。すると、どうしたわけあいか、不思議なことにも、段々とその不気味な白と赤との対照がたまらなく不愉快に、ついには見る毎に鮫肌たつ程いやらしいものに感じられて来たのです――三千円じゃァたしかに廉すぎましたよ。本当の値うちの十分の一にも当らないでしょう。併
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