にとどめてなかったのですから――その日、身に恐しい厄が迫っていようなぞとは夢にも思っていなかったばかりでなく、目を驚かす絢爛たる踊場の有様に、どうやら胡の顔の幻すら忘れ果てて、僕はマドレエヌと共に心ゆくまで踊りぬくことが出来たのでした。そして少からず疲れたので、まだ時刻は早かったが、と云っても十二時は廻っていたのですが、そろそろ切り上げて帰ることにしました。と、階段わきのクロークルームの前でぱったり、ピエロの仮装をした少年紳士の郁さんに出遇ったのでした――郁少年の事はたしかまだお話し致しませんでしたね。彼は僕が上海に来た当時からひと方ならず親しくしていたこの都の若い金持のお坊っちゃんで、絵――洋画を大変上手に画くハイカラな美少年でした――で、郁少年はこの時初めて、僕の帰国することを知って、さまざまと残念がりました。僕も何だかつい[#「つい」に傍点]つり込まれてひどくセンチメンタルな気持になってしまいました……実際また郁少年はいかにも支那の金持のお坊っちゃんらしい素なおなやさしい若者であったのですからね。そしてそこで彼は、記念にと云って僕の着ていたサムライの衣裳を所望したのです。勿論僕は
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