―なあに?」
――僕は、幸せだよ。」
――…………」
――幸子さんが、たった一度接吻してくれたばかりで、こんなに元気がついてしまったのだって、兄貴にそう云ってみようかな。」
――あんたは、悪党よ。」
――結構……」
――あたしが、あんたを愛しているとでも思ったら、それこそ大違いだわ。」
幸子は、花をうっちゃって立ち上がった。
――嘘だ! 幸子さんは、心の底では誰よりも一番僕を愛していなければならない筈だ。一時眠っていた昔の僕たちの恋が目をさましたのだよ。あんなに一途だった人間の愛情がそう簡単に亡びてしまうわけはないのだからね。僕は長いこと待った……」
――あたし、死にかけた人間なんかに恋をしなくってよ!」
幸子は、そう云い捨てると、駈け出した。
旻は、周章て縁側から芝生へ飛び降りた。そして跣足《はだし》のまま、蹌踉《よろめ》[#ルビの「よろめ」は底本では「よろめき」]きながら、咳につぶれた声で呼び立てた。
――幸ちゃん! ごめん、ごめん。……幸子さん!」
併し、幸子は、振返りもせずに、どんどん裏木戸から断崖《きりぎし》の松林の方へ走り去った。旻は踏石の上の庭下駄を突っかけて、その跡を追った。
間もなく、旻一人だけ切なそうな息を切らせて戻って来た。
――何処へ行ったのか、見えなくなってしまったよ。」と旻は、家の者に告げた。旻は苦しがって、それから直ぐ床についてしまった。
ところが、何時迄待っても、夕方になってやがて浜辺や松林の景色が物悲しく茜色に染まって、日が暮れかけても、幸子は帰らなかった。人々は漸く気遣いはじめた。そこで幸子の立ち廻りそうな極めて少数の家々と停車場とへ問い合せてみたが、一向に知れなかった。
夜っぴて、幸子は帰らずにしまった。
旻は旻で、ひどく熱を出して、多量に喀血した。
4
夜明に近い頃、蝋燭のたってしまった白い提灯を下げた捜索の村人の一人が、蒼い顔をして報告を持って来た。幸子が断崖の下の岩蔭に落ちて死んでいると云うのである。
別荘の人々は狼狽した。肝心な旻は殊の外重態でそんなことを耳に入れるのさえ非常に危ぶまれたし、年のゆかない女中や看護婦ばかりで、全く途方に暮れた。
先ず晃一に知らせてやらなければならないのだが、併し恰度その日は晃一が来る日で電報を打ったところで行き違いになる迄のことだと云うので見
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