も御存知ないの。あなた方が泳ぎはじめると、直ぐに『眩暈がする』と仰有って、宿に戻ったのですけれど、それっきり皆を置いてきぼりにして家へ帰ってしまったらしいの。帳場で聞いたら、ただあなたに『急に思い出したことがあるから――』と云うお言伝だったそうです。」
「Bは?」
「自分の部屋にいます。」
「呼んで来てくれませんか。」
 Bの細君は、Bを呼びに立ったが、直き一人で、右手に黒いガラスの小壜を持って引返して来た。
「Bも帰ってしまいました!――」と彼女は震え声で、やっとそれだけ云った。
「何とも断らないでですか?」
 彼女は點頭《うなず》いて、黒いガラス壜を差し出して見せた。小いさな髑髏《どくろ》の印のついたレッテルに、赤いインキで(空虚の充実。お役に立てば幸甚!)と書かれてあった。
 二人は容易にその意味を理解した。そしてその夜、壜の中の赭黒い錠剤を一個ずつ飲んで、天の花園へ蜜月旅行に旅立つために、二人はあらためて、花嫁となり花婿となった。……だが、何時間経っても、ただ一度Aが苦い※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気を出した以外に、薬の効き目はあらわれなかった。夜が明けかけても、
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