――いけないわ。」
彼女は危く私のつけ髭の上へ唇を外らした。
――ニセ者!」と彼女は私を叱った。
私は、失敗った、と思った。
――未だ、つけ髭なんかでごまかしているのね。なぜ、ほんものの髭を生やさないの?」
――姉が、ゆるさないものですから……」と私はどもった。
――姉さんなんか、捨てておしまいなさいよ。」
――あなたは、僕の哀れな姉を、御存知ですか?」
――ほんものの髭が生える迄は、あたしお会い出来ませんわ。」
――どうぞ!」と私は喘いだ。
――いや!」
彼女は強か私を振りもぎって立ち去りかけたが、ちょっと足をとめてふり返って、――もしも、髭がほんとに生えたならば、あなたの窓へ、汽車のシグナルみたいな赤い電気をつけてちょうだい。」と云った。そしてまたすたすたと、連なる並木の蔭へ吸い込まれて行った。
私は茫然と立ちつくすのみであった。
――男は髭を生やさなければ、ほんとうの値打が現われないものであろうか?」
だが、その次にふと私は、頭の中に今頃は何処かの四辻に立って、草花を売っているに違いない、姉のしなびた醜い顔を思い浮かべて、またしても泪に暮れた。
――
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