ついた。そして寝室の扉には鍵が卸りていた。(――まことにお誂え向きにも、郊外風の割にガッシリした和洋折衷の建築だったのである。)
浅原が岩畳な体ごとぶつけて、扉を押し破って入って見ると、果して瓦斯ストーヴ用の瓦斯の栓を開け放した儘、智子の母親は寝床の中で白蝋のように冷たく眠っていた。枕元に書置が載せてあって、次のようなことが辿々しく記されてあった。
[#ここから引用文スタイル。一字下げ]
――智子。
あなたと、礼介さんは決して兄妹ではありません安心して結婚していいのですよ。つまり、あの写真の人があなたのお父さんだと云ったのは、まるっきり嘘だったのです。…………そして、実を云えば、私があの人と結婚したと云うのも嘘なのです。ただ私たちは――私と松岡とは、田舎にいた時分、許嫁だったのです。その頃私は漸く物心がつきはじめた位の子供でしたが、それでも行く行く自分の一生を委せる夫はあの人以外にないものと信じていました。あの人も私を誰よりも愛してくれました。……
松岡は大学を出るとアメリカへ行きました。ほんの一年か二年と云う約束だったのにも拘わらず、三年経っても五年経っても一向戻って来ませんでした。それでもなお私は変らぬ愛情をあの人の上に捧げていたのですが、その中に風の便りに、あの人がどうやらアメリカで結婚したらしいと云う噂を聞きました。――それで、私の周囲の人々は、私にあの人を諦めるようにといろいろ説いて聞かせ初めました。
併し、私はやっぱり、たとえば、ペア・ギュントの帰りを頭が白くなる迄も辛抱強く待っていたソルヴェジのように、どんなに寂しく永い間置きざりにされていようとも、一生の中には何時か帰って来てくれる日があるような気がして、甲斐なく望みをかけていました。
併しやがて両親が次々に死んで、私は本当にたった一人で暮さなければならなかったのですが、それでは余り淋しすぎたので、恰度|知己《しりあい》の貧しい学校の先生の家で、七人目の赤ん坊が生まれて、育てかねていたのを貰って養うことにしたのです。
その赤ん坊が、あなただったのです。……私はそれから何かと面倒な田舎を捨てて、あなたと二人きりでこの都へ出て来ました。
私はあなたが大きくなるにつれ、あの人を父親であるようにあなたに信じさせることに依って、段々私自身もそんな風な夢や錯覚の中でなぐさめられようとつとめました。そして、十年も
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