或る母の話
渡辺温

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)愁《かな》しくなること

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)草色|天鵞絨《ビロウド》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)乗箱型の自動車《クーペ》[#「箱型の自動車」に「クーペ」のルビ]
−−

  1

 母一人娘一人の暮しであった。
 生活には事かかない程のものを持っているので、母は一人で娘を慈しみ育てた。娘も母親のありあまる愛情に堪能していた。
 それでも、娘はだんだん大人になると、自分の幼い最初の記憶にさえ影をとどめずに世を去った父親のことをいろいろ想像する折があった。
『智子のお父さんは、こんなに立派な方だったのだよ――』
 母親は古い写真を見せてくれた。
 額の広い、目鼻立ちの秀でた若者の姿が、黄いろく色褪めて写っていた。
『ほんとに、随分きれいだったのねえ。――お母さん、幸せだったでしょう?』
『そりゃあ、その当座はね――』
『思い出して、愁《かな》しくなること、あって?』
『死んでから、もう二十年近くにもなるんだもの。それに、この写真みたいに若い人じゃ、まるで自分の息子のような気がしてね。……』
 母親はそう云って笑った。だが、娘は、母親の若よかな靨《えくぼ》のある頬が鳥渡の間、内気な少女のように初々しく輝くのを見た。
『そうね、あたしだって、こんな若いお父さんのことを考えるのは変な気がしてよ。』
『いっそ、お前のお婿さんなら、似合いかも知れない――』
『ひどいお母さん。――でも、お母さんは、どうしてそれっきり他所へお嫁にいらっしゃらなかったの?』
『どうしてって。――お前のお父さんのことが忘れられなかったし、それにあんまり悲しい目に会うと、女は誰でも臆病になってしまうんだろうね。』
『さびしかったでしょう?』
『少しの間さ。すぐにお前が、みんな忘れさせてくれるようになったもの。……』
 母の声は草臥《くたびれ》てでもいるように聞こえた。
 娘は、若い時になら自分よりも器量よしだったに違いない面影の偲ばれる母親が、そんなに早く青春から見捨てられてしまった運命を考えて胸を窄めた。

  2

 その年の春、智子は女学校の高等科を卒業して、結婚を急ぐ程でもなし、遊んでいるのも冗《むだ
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
渡辺 温 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング