に晩秋の庵……誠によい時節であります。毎朝五時頃、まだウス[#「ウス」に傍点]暗いうちから一人で起き出して来て、……庵にはたつた一つ電燈がついて居まして、之が毎朝六時頃迄は灯つて居ります……東側の小さい窓と、両側の障子五枚とをカラリ[#「カラリ」に傍点]とあけてしまつて、仏間と、八畳と、台所とを掃き出します。そしてお光りをあげて西側の小さい例の庭の大松の下を掃くのです。この頃になると電気が消えてしまひまして、東の小窓を通して見える島の連山が、朝日の昇る準備を始めて居ります。其の雲の色の美しさ、未だ町の方は実に静かなもので、何もかも寝込んで居るらしい、たゞ海岸の方で時折漁師の声がきこえてくる位なもの――。これが私のお天気の日に於ける毎日のきまつた仕事であります。全く此頃お天気の日の庵の朝、晩秋の夜明の気持は何とも譬へやうがありません。若しそれ、これが風の吹く日であり、雨の降る日でありますと、又一種別様な面白味があるのであります。島は一体風の大変よく吹く処で、殊に庵は海に近く少し小高い処に立つて居るものですから、其の風のアテ方[#「アテ方」に傍点]は中々ひどいのです。此辺は余り西風は吹きませんので、大抵は海から吹きつける東南の風が多いのであります。今日は風だな、と思はれる日は大凡わかります。それは夜明けの空の雲の色が平生と異ふのであります。一寸見ると晴れさうで居て、其の雲の赤い色が只の真ツ赤な色ではないのです。之は海岸のお方は誰でも御承知の事と思ひます。実になんとも形容出来ない程美しいことは美しいのだけれども、その真ツ赤の色の中に、破壊とか、危惧とか云つた心持の光りをタツプリ[#「タツプリ」に傍点]と含んで、如何にも静かに、又、如何にも奇麗に、黎明の空を染めて居るのであります。こんな雲が朝流れて居る時は必ず風、……間も無くそろそろ吹き始めて来ます。庵の屋根の上には例の大松がかぶさつて居るのですから、之がまつ先きに風と共鳴を始めるのです。悲鳴するが如く、痛罵するが如く、又怒号するが如く、其の騒ぎは並大抵の音ぢやありません。庵の東側には、例の小さな窓一つ開いて居るきりなのですから、だんだん風がひどくなつて来ると、その小さい窓の障子と雨戸とを閉め切つてしまひます。それでおしまひ。他に閉める処が無いのです。ですから、部屋のなかはウス[#「ウス」に傍点]暗くなつて、只西側の明りをたよりに坐つて居るより外致し方がありません。こんな日にはお遍路さんも中々参りません。墓へ行く道を通る人も勿論ありません。風はえらいもので、どこからどう探して吹き込んで来るものか、天井から、壁のすき間から、ヒユーヒユーと吹き込んで参ります。庵は余り新しくない建て物でありますから、ギシギシ、ミシミシ、どこかしこが鳴り出します。大松独り威勢よく風と戦つて居ります。夜分なんか寝て居りますと、すき間から吹き込んだ風が天井にぶつかつて[#「ぶつかつて」に傍点]其の儘押し上げるものと見えまして、寝て居る身体が寝床ごと[#「ごと」に傍点]いつしよにスー[#「スー」に傍点]と上に浮きあがつて行くやうな気持がする事は度々のことであります。風の威力は実にえらいものであります。私の学生時代の友人にK……今は東京で弁護士をやつて居ります……と云ふ男がありましたが、此の男、生れつき風を怖がること夥しい。本郷のある下宿屋に二人で居ましたときなんかでも、夜中に少々風が吹き出して来て、ミシ/\そこらで音がし始めると、とても[#「とても」に傍点]一人でぢつと[#「ぢつと」に傍点]して自分の部屋に居る事が出来ないのです。それで必ず煙草をもつて私の部屋にやつて来るのです。そして、くだらぬ話をしたり、お茶を呑んだり煙草を吸つたりしてゴマ[#「ゴマ」に傍点]化して置くのですね。私も最初のうちは気が付きませんでしたが、たうとう終ひに露見したと云ふわけです。あんなに風の音[#「風の音」に傍点]を怖がる男は、メツタ[#「メツタ」に傍点]に私は知りません。それは見て居ると滑稽な程なのです。処が、此の男に兜を脱がなければならないことが、こんどは私に始つたのです。それは……誠に之も馬鹿げたお話なのですけれ共……私は由来、高い処にあがるのが怖いのです。それも、山とか岳とかに登るのではないので、例へば、断崖絶壁の上に立つとか、素敵に高いビルデイング[#「ビルデイング」に傍点]の頂上の欄干もなにもない其一角に立つて垂直に下を見おろすとか、さう云ふ場合には私はとても堪へられぬのです。そんな処に長く立つて居ようものなら、身体全体が真ツ逆様に下に吸ひ込まれさうな気持になるのです。イヤ[#「イヤ」に傍点]、事実私は吸ひ込まれて落ちるに違ひありません。と申すのは、さう云ふ高い処から吸ひ込まれて落込む夢を度々見るのですから。処が此Kです、あの少しの風音すらも怖がるKが、右申上げたやうな場合は平気の平左衛門なのです。例へば浅草の十二階……只今はありませんが……なんかに二人であがる時、いつでも此の意気地無し奴がと云ふやうな顔付をして私を苦しめるのです。丁度、蛇を怖がる人と、毛虫を怖がる人とが全然別の人であるやうなものなんでせう。浅草といへば、明治三十年頃ですが、向島で、ある興業師が、小さい風船にお客を乗せて、それを下からスル/\とあげて、高い空からあたりを見物させることをやつたことがあります。処がどうです、此のKなる者は、その最初の搭乗者で、そして大に痛快がつて居るといふ有様なのです……いや、例により、とんだ脱線であります。扨、風の庵の次は雨の庵となるわけですが、全体、此島は雨の少い土地らしいのです。ですから時々雨になると大変にシンミリ[#「シンミリ」に傍点]した気持になつて、坐つて居ることが出来ます。しかし、庵の雨は大抵の場合に於て風を伴ひますので、雨を味ふ日などは、ごくごく今迄は珍しいのでした。そんな日はお客さんも無し、お遍路さんも来ず、一日中昼間は手紙を書くとか、写経をするとか、読経をするとかして暮します。雨が夜に入りますと、益※[#二の字点、1−2−22]しつとり[#「しつとり」に傍点]した気分になつて参ります。
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    灯

 庵のなかにともつて居る夜の明りと申せば、仏さまのお光りと電燈一つだけであります……之もつい先日迄はランプであつたのですが、お地蔵さまの日から電燈をつけていたゞくことになりました。一に西光寺さんの御親切の賜《たまもの》であります。入庵以来幾月もたゝないのですが、どの位西光寺さんの御親切、母の如き御慈悲に浴しました事か解りません。具体的には少々楽屋落ちになりますから、これは避けさせていたゞきます……それだけの明りがある丈であります。扨、庵の外の灯ですが、之が又数へる程しか見えないのであります。北の方五六町距つた処の小さい丘の上にカナ[#「カナ」に傍点]仏さまがあります……矢張りお大師さまで……其上に一つの小さい電燈がともつて居ります。それから西の方は遙か十町ばかり離れて町家の灯が低く一つ見えます。東側には海を越えた島の山の中腹に、ポツチリ[#「ポツチリ」に傍点]一つ見えます。多分お寺かお堂らしいですが、以上申した三つの灯を、而もどれも遙かの先に見得る丈であります。しぜん、庵のぐるりはいつも真ツ暗と申して差支へありますまい。イヤ[#「イヤ」に傍点]、お墓を残して居りました。庵の上の山に在る墓地に、ともすると時々ボンヤリ[#「ボンヤリ」に傍点]と一つ二つ灯が見えることがあります。之は、新仏のお墓とか、又は年回などの時に折々灯される灯火なのです。「明滅たり」とは、正にこの墓地の晩に時々見られる灯火のことだらうと思はれる程ボンヤリ[#「ボンヤリ」に傍点]として山の上に灯つて居ります。私は、こんな淋しい処に一人で住んで居りながら、之で大の淋しがりや[#「淋しがりや」に傍点]なんです。それで夜淋しくなつて来ると、雨が降つて居なければ、障子をあけて外に出て、このたつた三つしかない灯を、遙かの遠方に、而も離れ離れに眺めて一人で嬉しがつて居るのであります。墓地に灯が見える時は猶一層にぎやかなのですけれどもさうさう[#「さうさう」に傍点]は贅沢も云へないことです。庵の後架は東側の庭にありますので、用を足すときは必ず庵の外に出なければなりません。例の、昼間海を眺めるにしましても、夜お月さまを見るにも、そしてこの灯火を見るにも、私が度々庵の外に出ますのですから、大変便利であります。何が幸になるものか解りませんね。後架が外にあることがこれ等の結果を産み出すとは。
 灯と申せば、私が京都の一燈園に居りました時分、灯火に対して抱いた深刻な感じを忘れる事が出来ません。此の機会に於て少し又脱線さしていたゞきませう。一寸その前に一燈園なるものの様子を申上げませう。園は、京都の洛東鹿ヶ谷にあります。紅葉の名所で有名な永観堂から七、八丁も離れて居りませうか、山の中腹にポツン[#「ポツン」に傍点]と一軒立つて居ります。それは実に見すぼらしい家で、井師は已に御承知であります。いつぞや北朗さんとお二人で園にお尋ねにあづかつた事がありますから……それでも園のなかには入りますと、道場もあれば、二階の座敷もある、と云つたやうなわけ。庭に一本の大きな柿の木があります。用水は山水、之が竹の樋を伝つて来るのですから、よく毀れては閉口したものでした。在園者はいつでも平均男女合して三十人から四十人は居りませうか、勿論その内容は毎日、去る者あり、来る者ありといふのでして、在園者は実によく変ります。私は一昨年の秋、而もこの十一月の二十三日|新嘗祭《にひなめさい》の日を卜して園にとび込みました。私は満洲に居りました時、二回も左側湿性肋膜炎をやりました。何しろ零度以下四十度なんと云ふこともあるのですから、私のやうな寒がりにはたまりません。其時治療してもらつた満鉄病院院長A氏から……猶これ以上無理をして仕事をすると……と大に驚かされたのが此生活には入ります最近動機の有力なる一つとなつて居るのであります。満洲からの帰途、長崎に立ち寄りました。あそこは随分大きなお寺がたくさん有る処でありまして、耶教撲滅の意味で、威嚇的に大きくたてられたお寺ばかりです。何しろ長崎の町は周囲の山の上からお寺で取りかこまれて居ると見ても決して差支へありません。そこで色々と探して見ましたが、扨、是非入れて下さいと申す恰好なお寺と云ふものがありませんでした。そこで機縁が一燈園と出来上つたと云ふわけであります。長崎から全く無一文、裸一貫となつて園にとび込みました時の勇気と云ふものは、それは今思ひ出して見ても素破らしいものでありました。何しろ、此の病躯をこれからさきウンと労働でたゝいて見よう、それでくたばる[#「くたばる」に傍点]位なら早くくたばつて[#「くたばつて」に傍点]しまへ、せめて幾分でも懺悔の生活をなし、少しの社会奉仕の仕事でも出来て死なれたならば有り難い事だと思はなければならぬ、と云ふ決心でとび込んだのですから素破らしいわけです。殊に京都の酷寒の時期をわざ/\選んで入園しましたのも、全く如上の意味から出て居ることでした。
 京都の冬は中々底冷えがします。中々東京のカラツ[#「カラツ」に傍点]風のやうなものぢやありません。そして鹿ヶ谷と京都の町中とは、いつでも、その温度が五度位違ふのですからひどかつたです。一体、園には、春から夏にかけて入園者が大変多いのですが、秋からかけて酷寒となるとウン[#「ウン」に傍点]と減つてしまひます。いろんなことが有るものですよ。扨、それから大に働きましたよ。何しろ死ねば死ね[#「死ねば死ね」に傍点]の決心ですから、怖い事はなんにもありません。園は樹下石上と心得よと云ふのがモツトー[#「モツトー」に傍点]でありますから、園では朝から一飯もたべません。朝五時に起きて掃除がすむと、道場で約一時間ほどの読経をやります。禅が根底になつて居るやうでして、重に禅宗のお経をみんなで読みます。但、由来何宗と云ふことは無いので、園の者は「お光り」「お光り」を見る
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